豪華さと悲劇で知られた「世界初のジェット旅客機」、ロンドン郊外の博物館で復元
「ほぼ不可能な任務」
コメットが目指したのは、選ばれた人々のための空の旅。快適さは必須だった。悪天候の影響を受けにくい高度4万フィート(約1万2000メートル)まで上るため、客室内の気圧を維持する与圧システムが採用された。速度は従来のプロペラ機を上回ったが、航続距離は2816キロと短く、長距離を一気に移動することはできなかった。
機内の前方に配置されたファーストクラスは、現在のハイクラスの座席よりむしろ自家用ジェットに近い。2人用の座席が木製のテーブルをはさんで向き合い、富裕層の家族連れを想定していたことがうかがえる。
当時の宣伝写真では、ドレスやオーダースーツで着飾った乗客がカクテルを片手に食事を楽しんでいた。ファーストクラスのテーブル上に、トランプのカードで家を組み立てる子どもたちの写真もあった。揺れにくいジェット機とはいえ、これはさすがに無理があっただろう。
1952年当時の機内の様子/Reuters
ともあれ、乗客の裕福さは写真の通りだったと、ウォルシュ氏は指摘する。チケットは非常に高価で、ヨハネスブルク行きの就航便では1枚175ポンド、現在の貨幣価値に換算すると4400ポンド(約87万円)に上った。
ファーストクラスの先には小さな調理室と、乗客らの大きなトランクに網をかけて収納するスペースがあった。
その先の操縦室も、アナログのダイヤルやスイッチが並ぶパネルまで忠実に再現されている。
ウォルシュ氏によれば、復元作業は「ほぼ不可能に近い任務」だった。どこから手をつければいいのか、頭を抱えることもあったという。
「高度が高すぎ、スピードが速すぎ、時期が早すぎた」
機長と副操縦士の後ろには、燃料消費や機器を監視する航空機関士と、地図や紙、鉛筆を使って飛行ルートを決める航空士の席がある。航空士は天窓から六分儀で太陽や星を観測していた。
最近の旅客機に搭載されているデジタルシステムと比べれば時代遅れかもしれないが、52年の時点ではコメットが最先端だった。
ただし、その栄光は長続きしなかった。ウォルシュ氏は「高度が高すぎ、スピードが速すぎ、時期が早すぎた」と語る。
博物館に展示されているコメットの客室は、片側の内装がなく、機体の外板と窓周りの付属品、それを固定するびょうがむき出しになっている。
コメットに見つかった最大の欠陥が、この客室の壁だった。
就航から1年足らずの53年3月3日、コメットはジェット旅客機として初の死亡事故を起こした。カナダ太平洋航空の運航する便が離陸時に排水路に激突し、乗員5人と乗客6人が死亡した。その2カ月後にもインドで機体が離陸後に墜落し、乗っていた43人全員が死亡した。
事態は翌年、さらに悪化した。54年1月10日にイタリア行きの便が空中分解し、35人が死亡。構造上の問題が疑われ、数週間にわたって全機の運航が停止された。さらに運航再開の直後、同年4月4日にも空中分解事故が発生し、21人全員が死亡した。
これ以降、コメット1A型は永久に運航停止となった。
その後、機体を水槽に入れて圧力をかける試験が実施され、高高度の飛行に必要な与圧と減圧の繰り返しに外板が耐えられなかったという結論が出た。ボルト穴やびょうの周りに亀裂が生じ、アンテナ窓などの開口部から割れ目が広がって破裂に至った。

大事故の後に行われた試験によってコメットの致命的な欠陥が明らかになった/Barry Neild/CNN
博物館ではコメットの隣に、試験で破壊された機体の一部が展示されている。そこには、欠陥を徹底的に解明した調査チームのへの敬意と、航空機の新境地開拓にともなう悲劇的な代償への反省が込められている。
コメット1A型機が商業飛行に復帰することはなかったが、その後継機としてエンジンや機体を強化した改良モデルが開発された。しかし58年にコメット4が就航するころには、競合するボーイング707やダグラスDC―8が航空各社に選ばれるようになっていた。
デ・ハビランド社も絶頂期を過ぎ、その後英航空大手ホーカー・シドレー社に買収されて、ブランドはほぼ消滅した。ただしかつての子会社、デ・ハビランド・カナダ社は今も存続している。
コメットは空から姿を消したが、その遺産は現代の航空機に活かされている。1A型機につぎ込まれた技術革新と、そこに生じた致命的なミスが、後に続く航空機を形作り、安全性の向上に役立ってきた。
「まずだれかが一部始終をスタートさせて、何かを作動させなければ、みんなが後に続くこともない」と、ウォルシュ氏は強調する。
同氏はさらに「コメットはトラブルがあったことで知られているが、それは少しばかり理不尽だ。当時としては間違いなく新機軸だったのだから」と語った。