コスタリカ沖に沈む残骸、海賊船ではなく奴隷船 海洋考古学者らが発見
年輪による年代測定によれば、一方の船に使われていたオーク材はバルト海の西部に起源を有する。そこはデンマークやドイツ北西部、スウェーデン南部といった地域にまたがる。
黄色い煉瓦は測定され、上記のフレンスブルクで作られていた煉瓦と同サイズであることが判明した。煉瓦に使われた粘土はデンマーク南部で産出されていた。残骸から見つかった陶製のパイプもデンマークのもので、大きさや形状、デザインから1710年の少し前に作られたと考えられる。
デンマーク国立博物館の研究教授を務める海洋考古学者、デービッド・グレゴリー氏は報道向けの発表で、複数の分析から2隻の残骸がデンマークの奴隷船だったことに疑いの余地はないと強調。木材には火災で焼けた痕跡があり、2隻のうち1隻が燃えたとする史料の記述にも完璧に合致すると言い添えた。
史料の伝えるところによると、当該の奴隷船は西アフリカのガーナから当時デンマークの植民地だったカリブ海のセント・トーマス島に向かっていた。
コスタリカの地元で水中考古学のコミュニティーを設立したマリア・スアレス・トロ氏によると、2隻合わせて乗っていたのは800人。煙霧で方向を見失い、1710年3月2日にコスタリカへ到達したという。
海賊と現地人への恐怖から、船長らは上陸して水と食料を探すべきか2日間議論した。そのうちに乗組員や奴隷たちの間で反乱が勃発。反乱後に残った人の数は650人となっていた。
デンマーク国立博物館の学芸員で海洋考古学者のアンドレアス・カルメイヤー・ブロック氏は、一連の出来事を受け、600人を超えるアフリカ人が現在カウイタ国立公園のある土地へ上陸したと説明した。その上で、今回の発見はデンマークの歴史とコスタリカを結びつける意味で重要だが、コスタリカの地元住民のアイデンティティーにとってはそれ以上に重要だと指摘する。
前出のトロ氏も「発見が地域にまつわる物語をも書き換える」と明言。それにより現地にアフリカ系コスタリカ人が存在したという証明は、公的な歴史記録の年代より数百年早まると付け加えた。