旧ソ連最後の指導者ゴルバチョフ氏が死去、91歳

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象徴的な赤い国旗がクレムリン(ロシア大統領府)から降ろされ、ソ連が崩壊。その後エリツィン氏が実権を握った。ゴルバチョフ氏は「我々は新たな世界に生きている」と発言した。

ゴルバチョフ氏が2012年4月にCNNの番組司会者のクリスティアン・アマンプール氏から、ソ連の崩壊をたくらんでいたかと問われると、「最後の最後まで」自分の発言にソ連解体を支持する言葉はなかったと答えた。

さらに「ソ連の崩壊はソビエトのノーメンクラツーラ、官僚の裏切りの結果であり、またエリツィンの裏切りの結果だ。彼は私と協力し、新連邦条約で協働すると話していた。条約案にも署名し、条約を開始した。だが同時に私の背後で動いていた」と語った。

1996年、ゴルバチョフ氏はロシア大統領選に出馬してエリツィン氏に対抗したが、得票率は1%未満に終わった。

退任後にも発信続ける

3年後、ゴルバチョフ氏は46年間連れ添った最愛の妻ライサさんをがんで亡くした。2人には娘のイリナさんがいる。ゴルバチョフ氏は「最悪の時でも私はいつも非常に冷静で、心が安定していた。だが彼女が亡くなった今、私はもう生きたくない。我々の生活の中心がなくなってしまった」と語った。

それでも同氏は生き続けた。核軍縮や環境、貧困について発信を続け、妻の名を冠した小児がんと闘う財団「ライサ・ゴルバチョフ財団」を家族と立ち上げた。

ゴルバチョフ氏はそれ以前にも、生態系に関する問題を扱う「グリーンクロス(緑十字)」や、「国際社会経済・政治研究基金(ゴルバチョフ財団)」を立ち上げている。2011年には毎年「ゴルバチョフ賞」を授与する活動を始め「世界をよりよく変えた人物」を表彰している。

ロシアの政界にも関与を続けた。01年にロシア社会民主党の党首となり、党の方向性や指導部との衝突で辞任する04年まで同職を務めた。07年には新たな政治運動「社会民主同盟」を率いた。この運動から野党「独立民主党」が立ち上がった。

ゴルバチョフ氏は12年にCNNのアマンプール氏とのインタビューで、ロシアの民主主義は「生きている」ものの「それほど元気ではない。私は生きているが元気だとは言えない」と発言。「民主制はロシアで効率的に機能していない。究極的には彼らが自由ではないからだ」と語った。

評価が分かれる後世への遺産

ゴルバチョフ氏はCNNとの19年のインタビューで、米ロ両国は緊張が高まっても、新たな冷戦に進展するのを回避するために努める必要があると語り、「これは熱い戦争へと変わる可能性があり、それは我々の文明全体の破壊を意味しうる。これを許してはならない」と強調した。

レーガン政権との間で1987年に締結したINF全廃条約が破棄された件を尋ねられると、そうした軍縮条約は復活できるとの期待を表明した。

ゴルバチョフ氏は「そこにあった全ての合意は保存されていて、破壊されてはいない。だが、こうした動きは、いかなる場合にも破壊してはならないものの破壊へと向かう最初のステップになる」と警告。軍縮の最終的な目標は核兵器の廃絶でなければならないとも語った。

ソ連崩壊後のゴルバチョフ氏の人生は世界に驚きを与える場面もあった。資金集めのためにピザハットやルイ・ヴィトンの広告に出演したほか、04年にはグラミー賞の最優秀児童向け朗読アルバム賞を受賞した。受賞作品には米大統領経験者のビル・クリントン氏、俳優のソフィア・ローレン氏とともに出演した。

他にも米国憲法センターから08年に自由勲章を授与され、11年には80歳の誕生日にロシア最高位の勲章となる聖アンドレイ勲章を当時のメドベージェフ大統領から受け取った。

だが、ゴルバチョフ氏は最後まで自国よりも他国で評価された指導者だった。ロシアではソビエト帝国を破壊した人物と悪口を言われたり、逆に共産党支配から国を解放する動きが遅すぎたと批判されたりした。一方西側では、冷戦終結を助けたノーベル平和賞受賞者として位置付けられている。

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