開戦から75年、朝鮮戦争をめぐる六つの意外な事実
(CNN) 北朝鮮軍による韓国侵攻で朝鮮戦争が始まってから75年。戦いは数百万人の命を奪い、今も消えない傷跡を残した。
だが朝鮮戦争はずっと、その約5年前に終わっていた第2次世界大戦の裏に埋もれ、あまり注目されてこなかった。戦死者が3万6000人を超えた米軍からさえ、「忘れられた戦争」と呼ばれている。
韓国には、国連軍の下へ米国を含む16カ国が戦闘部隊を送り込んだ。中国は北朝鮮側で参戦した。
1950年6月25日に北朝鮮軍が北緯38度線を越え、韓国へ侵攻したことで戦争が始まった。53年7月27日に成立した休戦協定で戦闘は停止したものの、その後も平和条約が締結されることはなく、正式な戦争終結には至っていない。
近年の複雑な米朝関係を受け、朝鮮戦争の残した遺産が改めて関心を集めてはきたが、今も陰に隠れがちな戦争であることに変わりはない。
ここでは朝鮮戦争をめぐる、あまり知られていない事実を六つ紹介する。
1.米軍、一時平壌を占領
現在、米国人が北朝鮮やその首都である平壌を訪れることはほぼ不可能だ。米国のパスポートを持つ人が渡航するには、国務省から特別な許可を取る必要がある。
その平壌が、実は50年10月から8週間にわたり、米軍に占領されていた。

1950年、平壌で活動する米陸軍第1騎兵師団の兵士ら/Everett/Shutterstock
米陸軍の記録によると、第1騎兵師団が同月19日、韓国軍の部隊とともに平壌を制圧した。
米軍はただちに占領態勢を敷いたという。
22日までには、当時北朝鮮を率いていた金日成(キムイルソン)主席の本部だった建物に、米陸軍第8軍が前進司令部を設置した。

バリケードで身を守りながら平壌の市街戦を戦う米海兵隊。奥の建物にはソ連の指導者スターリンと北朝鮮の指導者金日成の肖像画が掲げられている/Bettmann Archive/Getty Images
当時の写真には、金日成のデスクの前に座る米情報将校の姿が映っている。背後の壁にはソ連の指導者、スターリン共産党書記長の肖像が掲げられていた。
だが米軍の平壌占領は長くは続かなかった。40年11月に参戦した中国軍が素早く南下し、12月5日までには平壌から米軍部隊を撤退させた。
2.第2次大戦中上回る数の爆弾を投下
朝鮮戦争を撮った写真のほとんどは、長津湖(チャンジンホ)や仁川(インチョン)での地上戦の場面だ。しかし米軍が北朝鮮に与えた損害の多くは、容赦ない爆撃の結果だった。
歴史家のチャールズ・アームストロング氏が引用した数字によると、3年間の朝鮮戦争で米軍機が投下した通常爆弾と焼夷(しょうい)弾は合わせて63万5000トン。第2次大戦中に米軍が太平洋地域全体に投下した50万トンを上回った。

朝鮮戦争中に爆弾を投下する米爆撃機B29「スーパーフォートレス」/Keystone/Hulton Archive/Getty Images
当時北朝鮮にいたジャーナリストや国際監視要員、米国人捕虜らの話によると、主な建物はほぼすべて破壊されたという。北朝鮮は50年11月までに、市民らに住居や避難場所として穴を掘るよう呼び掛けた。
北朝鮮は爆弾の犠牲者数を公表していないが、米シンクタンク、ウィルソン・センターの冷戦史プロジェクトはロシアの史料から得た情報として、28万人以上と報告している。
戦略爆撃の父と呼ばれ、第2次大戦で米軍による日本への大規模空襲を指揮したカーチス・ルメイは、北朝鮮への爆撃についてこう述べた。
「われわれは現地へ赴いて戦い、さまざまな手段で最終的には北朝鮮のあらゆる街を焼き尽くした」

北朝鮮・咸興市の瓦礫の中を歩く米軍兵士/stringer/afp/getty images
北朝鮮に対するそうした爆撃の影響は、現在にまで残っているとアームストロング氏は分析する。
「北朝鮮政府は、自分たちが米軍機の攻撃に対して脆弱(ぜいじゃく)であるという教訓を決して忘れなかった。同じ状況に再び陥ることのないよう、休戦協定から半世紀にわたって対空防衛の強化や地下施設の建設、さらには核兵器の開発を続けた」(同氏)
3.ソ連とスターリンに開戦を説得
第2次大戦が終わった時、敗戦国の日本が占領していた朝鮮半島は北半分がソ連、南半分が米国の管理下に入った。
ウィルソン・センターの記録によると、金日成は共産主義体制の下で南北を統一したいと考え、ソ連のスターリンに武力統一への承認を求めた。

1947年、平壌でのパレードのために用意されたスターリンの肖像画/Bettmann Archive/Getty Images
49年3月に金日成から初めて侵攻の話を持ち掛けられたスターリンは、当時まだ韓国に占領軍を置いていた米軍との紛争に巻き込まれることを嫌い、慎重な姿勢を示した。
だが49年夏に米軍が韓国から撤収すると、スターリンは態度を軟化させ、50年4月にモスクワを訪れた金日成の話に改めて耳を傾ける構えを示した。
スターリンは、金日成が中国の承認を取り付けたらという条件付きで、侵攻を支持する方針を示した。
中国では、毛沢東率いる共産党が国民党との内戦に勝利していた。この内戦に米国は介入しなかった。勝利の勢いに乗った毛沢東は金日成に同意し、米国が介入した場合は北朝鮮を支援する戦力になると表明した。
これにより、金日成は侵攻へのゴーサインを得た。
4.朝鮮戦争が台湾を共産党支配から救った
国共内戦に敗れた蒋介石と国民党の残党は台湾へ逃れた。勝利した共産党は49年、台湾侵攻に向けて沿岸部に兵力を集結させていた。
しかし朝鮮戦争が始まったことで、侵攻計画に大きな障害ができた。米海軍だ。当時のトルーマン米大統領は朝鮮半島での戦いが東アジア全体に広がることを恐れ、台湾と中国の間の海域に艦隊を送り込んだ。
米国務省によれば、台湾には当時、共産党に支配される可能性が差し迫っていた。
同省広報局歴史部の文書にはこう記されている。「1949年末から50年初めにかけ、米当局者らは中国軍が台湾海峡を渡り、蒋介石を打倒する展開を容認する構えだった。だが50年6月に朝鮮戦争が始まった後、米国は朝鮮の紛争が南方へ拡大することを阻止するために、台湾海峡へ第7艦隊を派遣した」
「第7艦隊の登場に中国共産党は腹を立て、台湾侵攻の態勢にあった兵力を朝鮮の前線へ移動させた」
米シンクタンク、ブルッキングス研究所によると、50年10月19日の時点で、中国軍の12個師団、兵士約25万人が北朝鮮に配置されていた。
この中国軍部隊は米軍、韓国軍と対戦して多大な損害を与え、最終的に北朝鮮から両軍を完全に撤退させた。
一方で中国側の損失も非常に大きく、18万人を超える戦死者が出た。
5.ジェット戦闘機同士が史上初の空中戦

国立米空軍博物館に展示された朝鮮戦争時代の戦闘機F80「シューティングスター」/US Air Force
ジェット戦闘機が初めて戦場に投入されたのは第2次大戦中。機体はドイツ軍の「メッサーシュミットMe262」だった。しかしジェット戦闘機同士が映画「トップガン」のような空中戦を展開するようになったのは、朝鮮戦争からだ。
記録によれば、50年11月8日に北朝鮮の中国国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)に近い街、新義州(シニジュ)の上空で起きた空中戦が最初だったとみられる。米軍のF80「シューティングスター」と、ソ連のパイロットが中国から発進させたとみられる複数のソ連製MiG15が対決した。
米空軍第51戦闘航空団の戦史部門によると、米軍のF80戦闘機4機の部隊が同日、8~12機のMiG戦闘機に追尾された。米空軍のラッセル・ブラウン中尉は、このうち1機のMiGと60秒間対峙(たいじ)し、機関砲を発射して敵機の爆発を確認。空中戦で相手を仕留めた初のジェット戦闘機パイロットになったという。
これには異論もある。米海軍協会(USNI)の報告書にはソ連側の記録として、この日に撃墜されたMiGはないと記されている。
確かなのは翌9日、鴨緑江の橋に対する空爆の最中に、米海軍の空母「フィリピン・シー」からF9F戦闘機で出撃したウィリアム・エイメン少佐が1機のMiG15を撃墜したことだ。

日本の基地から飛び立ち、朝鮮戦争の任務に参加するF80戦闘機4機=1950年7月13日/Underwood Archives/Getty Images
米軍はその後、朝鮮戦争にF86「セイバー」を投入した。F86はソ連兵らが中国側の基地からMiG15で出撃する中朝国境沿いの「ミグアレイ」と呼ばれる戦域で威力を発揮し、大きな注目を集めた。
米オハイオ州の国立米空軍博物館で、ミグアレイはこう説明されている。「国境の満州側に大規模なMiGの編隊が待機していた。国連軍機がミグアレイに入ると、これらのMiGが高高度から急降下して攻撃した。MiGは問題が起きると国境を越えて中国側へ逃げ込もうとした(戦争拡大を防ぐため、国連軍のパイロットは満州内の標的を攻撃しないよう命令されていた)。この有利な状況にもかかわらず、共産圏側のパイロットはさらによく訓練された米空軍セイバーのパイロットにかなわなかった。MiGに対するセイバーの撃墜率は8:1に達した」
6.宣戦布告なしで参戦
朝鮮半島の戦闘では50~53年の間に数百万人の命が失われたが、これは形式上、「警察行動」による死者とされた。
米国の憲法によると、外国に対する宣戦布告の権限を持つのは連邦議会のみ。だが議会は第2次大戦以降、この権限を行使していない。
50年に北朝鮮が韓国へ侵攻した時、トルーマン大統領は国連安全保障理事会が承認した協調態勢の一環として米軍を派遣し
、介入した。
米国立公文書館の文書には「国連軍の下へほかに15カ国が派兵した。トルーマンは議会に正式な宣戦布告を求めなかった。朝鮮半島における米国のプレゼンスは、公式には『警察行動』にすぎなかった」との記述がある。

1952年、朝鮮半島の丘陵地帯で塹壕を掘る米軍兵士/Hulton Archive/Archive Photos/Getty Images
米国ではそれ以来、警察行動という名の軍事介入が慣例化した。米下院の公式サイトによれば、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタンとコソボの紛争ではいずれも、米軍部隊が議会の武力行使容認決議(AUMF)に基づいて戦闘に入った。
AUMFは米建国当時から存在していた制度だが、下院のサイトによれば「第2次大戦以降、AUMFの範囲は大幅に広がり、米軍を世界各地で戦わせる広範な権限を大統領にたびたび与えてきた」という。
米エモリー大学の法学者、メアリー・ドゥジアク教授は2019年、米紙ワシントン・ポストのコラムにこう書いた。「朝鮮戦争は、米国が初めて宣戦布告なしに戦った大規模な外国の紛争であり、現在のように大統領が単独で行使する権限の前例となった」
同教授はさらに、「今世紀の終わりなき戦争が可能になった背景には、朝鮮戦争の影響がある」と指摘した。