LA、19世紀の中国人虐殺事件めぐり慰霊碑の建立を検討

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1871年に中国人虐殺事件が起きた区域の再現描写/Courtesy of the Chinese American Museum

1871年に中国人虐殺事件が起きた区域の再現描写/Courtesy of the Chinese American Museum

(CNN) 米ロサンゼルスには、市中心部の歩道に設置された小さな銅版を除き、150年前に起きた米国史上最悪規模の虐殺事件を思い起こさせるものはほとんど残っていない。

1985年にアジア系米国人として初の同市議会議員となったマイケル・ウー氏は、この地で生まれ育ったにもかかわらず、1871年に中国人が虐殺されたことについて耳にしたことはなかったと話す。学校で教えられたことはないし、歴史の本に書かれてもいない。この街の中国系米国人社会でも知られていないようだった。

2012年になり、虐殺事件についての書籍を書評するよう、地元紙ロサンゼルス・タイムズに誘われたことで、同市の暗い歴史の一幕を初めて学ぶことになったという。

19世紀の西部開拓時代、ロサンゼルスは住民の数が6000人未満で、無法状態と自警の風潮で名の知られた町だった。1871年の10月24日、町の小さな中国人社会の派閥間で決闘騒ぎが発生。警察がいさかいを止めさせようとしたものの、警察官1人が死亡した。中国人の男らが白人男性を殺害したといううわさはすぐに広まり、すぐに約500人の群衆が中国人街に押しかけて、住宅や事業所で略奪や焼き討ち行為を働き、中国人18人前後を殺害。ウー氏および史料によれば、この数は当時の中国人住民の10%に当たるという。

政界をすでに引退しているウー氏は、虐殺事件を追悼する大掛かりな慰霊碑の建立を目指す取り組みに関わる地元の指導者に名を連ねている。そしてこのプロジェクト案は新たに、新型コロナウイルス感染症の大流行によって引き起こされたアジア系米国人に対する暴力沙汰の急増を受け、緊急性を帯びることになった。

ウー氏は、「今回の米国におけるアジア人への反感により、ロサンゼルスでの虐殺事件が何らかの形で、後の暴力沙汰の土台を築いていたことを人々が認識し始めた」と語る。

先の虐殺は、例外的な事件だったわけではなく、米国で暴力沙汰や外国人嫌悪、アジア人差別が高まった時期に発生。当時の中国人の多くは、ゴールドラッシュの時代に労働者としてやって来て、その後に別の下層労働に従事し始めた人々だった。

単なる銅像にとどまらない慰霊碑を

今年4月、エリック・ガルセッティ市長の委託を受けた、ロサンゼルス市が自らの歴史を清算するためのより良いあり方を検討する作業部会が、市に対し1871年の虐殺事件の追悼に取り掛かるよう勧告。7月には同市長およびケビン・デレオン市議会議員が、ウー氏を含む60人超のメンバーで構成された委員会を設置し、どう正確に事件を記憶にとどめていくかを検討し始めた。

同委員会は先週、慰霊碑を通して事件をどう物語っていくかについての提言をまとめた報告書を発表。

委員会は、従来のような単なる彫像にとどまらないものを望んでおり、虐殺が市内各所で起きたことから、複数の場所に拡散させた慰霊碑を提起。街歩きのツアーで各所を結んだり、来訪者にスマートフォンでそれぞれの場所の意義について学んでもらうデジタル技術を取り入れたりしたものとなる可能性がある。

市当局はプロジェクトに向け、25万ドル(約2800万円)の予算を付けた。ウー氏はこの予算について、アーティストが慰霊碑のデザイン案を提起するコンペの資金に用いると説明。ウー氏によれば来年初めにもコンテストのスケジュールが始まる予定で、プロジェクトが完了するまでに数年を要する可能性が高いという。

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