北朝鮮による拉致から75年、姉妹はそれでも兄と会えると願う 韓国
ソウル(CNN) ミン・ヨンジェさんは75年の間、兄について、見たことも聞いたこともなかった。朝鮮戦争の初期に兄が北朝鮮に拉致されたとき、兄は19歳、ヨンジェさんはまだ2歳だった。
現在77歳のヨンジェさんはCNNの取材に対し、「私たちは近所では幸せな家族としてしられていました」と語った。姉のミン・ジョンジャさんもうなずいて同意した。
平穏な日々は1950年6月25日、北朝鮮の侵攻によって打ち砕かれた。3年にわたった戦争では双方合わせて84万7000人以上の兵士と約52万2000人の民間人が命を落とし、ミンさんの一家を含む10万以上の家族が引き裂かれた。
一家は戦後、長男がいつか帰ってくることを願い、瓦屋根の家のさび付いたドアを開けっぱなしにしていた。しかし、時がたつにつれて、南北朝鮮の間には有刺鉄線が張り巡らされ、家は近代的な集合住宅に取って代わった。
75年が経過したが、兄について一言も伝えられることはなく、また兄からの言葉もなかった。それでもミンさん一家やきょうだいは、いつか兄のことを聞ける日が来ることを今も願っている。兄本人でなくとも、子どもや孫からでも。
幸せな一家
一家は韓国首都ソウルの北東約100キロに位置する春川市の西にある緑豊かな山間の集落で暮らしていた。その村は、鳥のさえずりと水のせせらぎ、トラクターのエンジン音が響く場所だった。
村は同時に、第2次世界大戦後に朝鮮半島を分断した北緯38度線に危険なほど近かった。

長男と次男が死亡してから数年後の1959年に撮影された家族写真/Charlie Miller/CNN
7人きょうだいの末っ子のヨンジェさんは、子どものころにきょうだいとけんかした記憶はない。覚えているのは、両親が作った豆腐を分け合ったり、小川で水遊びをしたり、兄に肩車をされたりしたことだけだ。
ハンサムで優しく、賢いミン・ヨンソンさんは小学校の校長である父親の跡を継ぎ、春川教育大学で学んでいた。
5番目の子どものジョンジャさんは「彼のあだ名は『数学の天才』でした。数学が得意で、級友からも数学の天才と呼ばれていました」と振り返る。
兄が電車と船で通学する間、学生たちが数学を教えてほしいと家までついてくる日もあったという。
姉妹にとって、ヨンソンさんは思いやりのある兄だ。近くの小川は今では雑草に覆われて、水もほとんどなくなってしまったが、きょうだいはそこで魚を捕まえたり、水遊びをしたりした。
「私たちは本当に幸せに育ちました」(ジョンジャさん)
引き裂かれた家族
共産主義と資本主義という対立するイデオロギーから支援を受けた分断された朝鮮半島の国境近くに暮らしていたミンさん一家は、朝鮮戦争の恐怖を最初に体験した人たちでもあった。
金日成(キムイルソン)政権の北朝鮮軍が侵攻して来たとき、ジョンジャさんは、祖母が牛を引き連れて、涙を浮かべ「戦争だ!」と叫びながら走っていたのを見たことを覚えている。
緑の山々と草に覆われた集落の小川
一家が北から来た軍隊から身を守るため山の中を逃げ回っていた間にヨンソンさんは教師によって北に連れ去れた。
「教師は優秀な生徒を集めて連行しました。何人も何十人もの生徒を北へ連れて行きました」(ジョンジャさん)
この教師がなぜ生徒を北朝鮮に拉致したのかはわかっていない。韓国政府は、北朝鮮が自国の軍事力を補強するために韓国人を拉致したと推測している。

ミンさん一家の父親が校長を務めていた小学校。現在は近代化されている/Gawon Bae/CNN
さらに、次兄の死という新たな悲しみがすぐ続いた。ジョンジャさんやヨンジェさんによれば、次兄は兄の誘拐を深く悲しみ、ショックと苦痛で命を落とした。
「悲しみは計り知れませんでした。両親は息子2人を失いました。どれほどつらいことか想像してみてください」(ジョンジャさん)
父親にとって、息子2人を失った悲しみは計り知れないものだった。父親はパニック障害を発症し、残りの人生は働くのに苦労したという。
「父は外に出られず、常に家にいました。大きなショックを受けていたので日常生活を送るのも苦労していました。それで母が(仕事に)出て、とても苦労しました」(ヨンジェさん)
母親は残された5人の子どもと夫の生計を立てるために奔走した。それでも母親は毎朝、ヨンソンさんのために祈りを捧げ、韓国の民間の儀式にのっとって、おわんにきれいな水を満たし、その日家族が食べるごはんの最初のひとすくいを、いつか戻ってくると信じていた息子のためにおわんに残しておいた。
「母は引っ越しができませんでした。兄が家に戻れなくなるかもしれないから。家の何も変えさせてもらえませんでした。扉さえも。そうやって母は兄を待っていたのです。本当に長い間待っていましたが、時間だけが過ぎていきました。」(ジョンジャさん)

ミンさん一家が住んでいた瓦屋根の家は近代的なアパートに建て替えられていた/Gawon Bae/CNN
苦しみは続く
ジョンジャさんは戦争が始まったときは8歳だったが、多くの大人が圧倒されるような残虐行為を目撃した。
「たくさんの子どもたちが亡くなりました。洗濯をしに川に行くと、ときどき、子どもの遺体が浮かんでいるのを目にしました」(ジョンジャさん)
ジョンジャさんは、北朝鮮兵が人々を麦畑に整列させて機関銃で撃つところを目撃したのを覚えている。「そして、人々は一人ずつ麦畑に倒れていきました」
「あまりに多くのものを見過ぎました。あるときは、韓国人か北朝鮮人かさえわからなかったのですが、兵士の首を切られた遺体を目にしました」(ジョンジャさん)
ミンさんの一家は戦争によって引き裂かれた多くの家庭の一つだ。13万4000人以上の人々が今もなお、北朝鮮にいるとみられる大切な人からの連絡を待っている。北朝鮮は今や世界で最も孤立した国の一つであり、韓国と北朝鮮との往来はほぼ不可能となっている。
朝鮮戦争から数年後、韓国と北朝鮮は赤十字と両政府を通じて双方から特定された離散家族を再会する計画について協議を行った。
最初の再会は、休戦協定の調印から30年以上が経過した1985年に実現した。2000年以降は毎年、再会事業が行われるようになった。当時は、戦争を直接経験した犠牲者がまだ生存していたが、朝鮮半島の緊張が高まり、ときおり再会事業は中断された。
両国政府が再会の日程に合意すると、韓国か北朝鮮どちらかが高齢者や近親者を優先した家族を選び、その名簿をもう片方に共有する。受け取った側は自国の家族と照合し、約100人の名簿を確認する。
選ばれた家族は、北朝鮮にある金剛山リゾートの再会事業のために特別に建設された面会所で再会することになる。
ミンさんのきょうだいは少なくとも5回、赤十字に申請を行い、韓国政府に離散家族として登録した。しかし、兄の居場所について北朝鮮側からは何の連絡もなかった。
75年が経過し、きょうだいは成長して結婚し、それぞれの家庭を築いたが、拉致された兄に関する疑問が消えることはなかった。
さらに悪いことに、18年にベトナム首都ハノイで開催されたトランプ米大統領と北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)総書記による米朝首脳会談が決裂した後、再会事業が中止された。戦争の直接の被害者も年老いて亡くなっている。
きょうだいは両親の願いに従い、ヨンソンさんとの交流を今も望んでいる。ヨンソンさんは今、94歳のはずだ。
ヨンジェさんは兄が顔を認識できるよう眼鏡を外しながら、CNNのカメラに向かって「ヨンソン兄さん、もう75年がたちました」と語った。「私たちが離れてから長い時間がたちました。あなたが生きていたら本当にうれしい。もし生きていなくても、あなたのお子さんたちに会えたらうれしいです。家族の愛を分かち合い、過ぎ去った幸せな日々を思い出したい。愛しています。ありがとう」