イラク戦争で得られた5つの教訓

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
開戦を伝える新聞=2003年3月20日

開戦を伝える新聞=2003年3月20日

職を失い、怒り、武装したものもいる多くのスンニ派の人々が、その後10年にわたってイラクの安定を揺るがす内乱の動きを組織したり促したりすることになる。

こうした決断を、アパルトヘイト(人種隔離)政策が廃止された後にネルソン・マンデラ氏が取った行動と比較してみよう。マンデラ氏は自身が率いるアフリカ民族会議(ANC)が権力の座に就いても、新政権は既存の官僚や軍幹部を1人も追放しないことに同意した。アフリカーナ人の支配層全員を保護することで、新しい南アフリカで彼らに脅威が及ばないようにした。結果として、ほとんど奇跡的に、多くの人々が避けられないとみていた内乱は発生しなかった。

扉をたたき壊すな

内乱が起こり始めると、最も初期の段階でさえ、米軍の取った対応は間違ったもので、完全に逆効果だった。米軍は「衝撃と畏怖(いふ)」を全面に押し出した戦略を採用し、反乱分子とみられる人物の家の扉をたたき壊し、地域社会を一網打尽にし、強硬な態度を見せ付けた。これは反発を呼び、地元の人々は米国人が暴力集団であり、反乱者が米国人に抵抗するには理由があるのだと考えるようになった。一方、イラク北部のモスルではデービッド・ペトレイアス大将が別の道を歩んでいた。ペトレイアス氏は最初から地元の人々から支持されることに注力し、資金的な援助や支援を与え、信用や信頼を得ることに尽力した。こうしたやり方が米軍全体で採用されるようになるのは、6年におよぶ戦闘と失敗の後だった。

取引は全ての関係者と

イラクにおける最も重要な取り組みは、合意を共有した新しい国家的な権力を生み出すために、シーア派とスンニ派とクルド人という3つのコミュニティーをまとめ上げることだった。その中には、石油の売り上げの分配や権力や統治機関の配分、領土紛争の解決などが含まれているはずだった。しかし、そうではなく、米国は過半数を占めるシーア派に主要な権限を受け渡した。

「World」のニュース

Video

Photo

注目ニュース

このサイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、Cookieなどを使用してアクセスデータを取得・利用しています。 これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。
Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについては詳細をご覧ください。
[ 閉じる ]