「ハドリアヌスの長城」が明かす、秘められたローマ帝国史
(CNN) パーティーの招待状、壊れたサンダル、かつら、道路の状態に不満を漏らした手紙、そして追加のビールを求める緊急の訴え――。
まるで春休みを満喫した後の光景のようだが、こうした遺物はいずれも2000年近く前のものだ。
これらはハドリアヌスの長城で見つかった遺物のほんの一部に過ぎない。ハドリアヌスの長城はローマ帝国の北西の境界として建設された全長約117キロの石造りの壁で、ブリタニア(現代のイングランドとウェールズ)をカレドニア(実質的に現代のスコットランド)から隔てていた。
古代ローマ時代から残る日用品というと、多くの人はポンペイやヘルクラネウムを思い浮かべるが、帝国北部の辺境の地にあったこの前哨基地には、驚くような発見が眠っている。
「片田舎に残された鮮やかな刻印だ。ハドリアヌスの長城を目にすることほど、ローマ帝国に足を踏み入れているのを実感させるものはない」。そう話すのは、ローマ兵の日常生活に焦点を当てた大英博物館の展示会「レギオン」の主任キュレーターを務めるリチャード・アブディー氏だ。ローマ軍の10分の1は現在の英国に当たる地域に拠点を置いていたことから、ハドリアヌスの長城は軍事資料の宝庫になっているという。
ただ、発掘結果が示すように、そこにいたのは兵士だけではない。
多文化の坩堝
ハウスステッドの要塞(ようさい)は現代でいう駐屯都市に近い/Darren Eddon/English Heritage
ハドリアヌス帝は紀元122年、ブリタニア訪問後に壁の建設を命じた。ハドリアヌスの長城に沿った史跡34カ所を管理する英文化財保護機関イングリッシュ・ヘリテージの学芸員、フランシス・マッキントッシュ氏によると、ハドリアヌス帝は歴代皇帝とは異なる帝国のビジョンを持っていたという。
「彼以前の皇帝はいずれも帝国の版図拡大に注力していたが、ハドリアヌスは『統合者』として知られていた」とマッキントッシュ氏は語る。ハドリアヌス帝は前任者のトラヤヌス帝が獲得した領土の一部を放棄して「境界を画定することに決め」、ドイツでは木製の柱、ブリタニアでは石で物理的な境界を築いた。木製の柱はとうの昔に腐敗したが、壁はまだ残っていて、ローマ帝国を「想起させる偉大な視覚的遺物」(マッキントッシュ氏)になっているという。
そこにあるのは壁だけではない。壁沿いの約1.6キロごとに城、約540メートルごとに小塔が建設され、壁の南北には溝や土手が設けられた。「景観だけでなく、一帯の住民にどのような影響があったのか想像がつくだろう」とマッキントッシュ氏は語る。
壁から出土した遺物のおかげで、こうした住民に関して驚くほど多くのことが分かっている。
歴史学者は長年、ローマ軍の前哨基地を人里離れた男性中心の場所と考えていたが、壁沿いで行われた発掘からはこれが事実ではないことがうかがえる。兵士は家族に付き添われていたほか、民間人は商売を営むため集落の周辺に定住した。「ハウスステッドはさながら駐屯都市だった」「酒を飲みに行ったりできる場所もあった」(マッキントッシュ氏)
反乱のリスクを警戒して、兵士を出身地域に配置しないというのがローマ時代の経験則だった。このため、ハドリアヌスの壁には現在のオランダやスペイン、ルーマニア、アルジェリア、イラク、シリアなどから部隊が集められ、文化の坩堝(るつぼ)の様相を呈していた。