OPINION

ウクライナの子どもなら誰もが知る「テーブルのパンくず」の教え

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ソ連時代のウクライナでの人為的な飢饉「ホロドモール」では膨大な数の死者が出た/Alamy

ソ連時代のウクライナでの人為的な飢饉「ホロドモール」では膨大な数の死者が出た/Alamy

(CNN) ウクライナで育つと、パンくずをテーブルの上に残さなくなる。筆者たちミレニアル世代(1980~90年代生まれ)は、この宗教じみたパンに対する尊敬の念を祖父母から教わった。彼らは1932~33年にウクライナで起きた飢饉(ききん)を生き延びた。「ホロドモール」の名で知られる、あの飢饉だ。

ダリア・マッティングレー氏
ダリア・マッティングレー氏

何度となく聞いた話では、1杯のスイバのスープがどうやって祖母ときょうだいたちを救ってくれたかが語られる。同じころ、村から取り立てられた穀物は、鉄道駅で腐るがままにされていた。その小麦があれば多くの命を救えただろうが、「国家」はそれを許さなかった。祖母は生涯、スイバを見るのも嫌になり、食器棚には塩と小麦粉の備蓄を欠かさなかった。

80年代の「グラスノスチ(情報公開)」と、そのすぐ後に起きたウクライナのソ連からの独立がもたらした新たな自由により、この国民的なトラウマを整理することができるようになった。ホロドモールの歴史をきっかけとして、ウクライナ人は自国をソビエト帝国の犠牲者とみなした。近年のクリミア半島併合やドンバス地方の紛争、さらに食料を武器として使用する現行の全面戦争は、そうした見方に合致する。

占領された地域では、相次ぐ証拠からロシア軍が穀物や機材をウクライナ人の農業従事者から盗んでいる実態が明らかになった。あるいは強制的に農産物を極めて安い価格で販売させてもいる。それらは報道によると現地からトラックに積み込まれ、併合したクリミア半島やロシアの港に運ばれるという。ロシア政府はこうした主張を否定している。

しかしこれほど明確な段取りで穀物をウクライナから持ち去ろうとする行為は、ただの出来心による略奪と異なる。一元的な管理の下、部隊が農地に到着し、トラックが穀物を港へと輸送している。

一方で、数百万トンの穀物がウクライナの港で足止めされている。黒海にいるロシアの船舶がこれらの港を封鎖しているためだ。とはいえ農産物を陸路で運び、隣接するルーマニアやポーランドの港へ届けるのは時間がかかる上に労力も大きい。

ウクライナ産小麦の輸出を統制することにより、ロシアは穀物価格を左右できる。ちょうど石油やガスでやっているのと同様だ。それにより確保した一段と大きな影響力を、当該の小麦に依存する国に対して行使するだろう。具体的には中国やインド、トルコなどの国々だ。さらに、穀物供給が制限されれば、アジアやアフリカの貧困国への供給も限定的となり、数百万人が飢餓に直面することになる。

ホロドモールを研究する学者として、筆者は1世紀近く前の人為的な飢饉と現在の戦争との間に多くの類似点を見出す。結局のところ、32~33年の飢饉と目下の戦争は、どちらもウクライナをロシアの支配下に置くことを目的としている。

今回の戦争が起きた様々な理由を探る人たちは、ホロドモールを調べるといい。北大西洋条約機構(NATO)やロシアのプーチン大統領が取り沙汰されるずっと以前に、ロシアの支配者たちはウクライナでの反乱を抑え込んできた。ソビエトのウクライナ支配に対する抵抗を一掃した30年代初めの状況も同様だ。

ソ連に属する残りの国々と同じく、ウクライナは農村地帯であり、間もなく農業集団化政策が施行される状況だった。とはいえ、国家による私有財産の接収に対する抵抗は、ウクライナが連邦内のどこよりも激しかった。ウクライナ人の農民たちはボリシェビキを決して支持せず、不人気な農業集団化政策は頑強な抵抗を引き起こした。

30年、治安部隊がソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンに対し、ウクライナの農民らによって多くの地域から当局者が追放されていると報告した。これは国家にとって危険の種だ。その後抵抗は鎮圧され、多くのウクライナ農民がシベリアや北部に送られた。

同時期、ウクライナの知識人らが呼び掛けたのは、ロシアによる強権的な文化面での取り込みを振り払うことだった。26年6月、ウクライナ共産党中央委員会は次の報告に対して懸念を表明した。それはウクライナ人作家のミコラ・フビロヴィが他の文化人に対し、それぞれの作品における「脱モスクワ!」を促したという内容だった。

ソビエトが非識字の撲滅に取り組む中、これらの作家の言葉が活字となって広まると、民族運動が勢いを増すのは時間の問題でしかなかった。

大規模な飢饉が農業集団化政策に続いて起こったソ連において、政府は異常に高い水準の穀物徴収計画をウクライナに対して課した。32~33年のことだ。公式には、穀物が必要なのは工業化に向けた工場設備の資金を賄うためとされた。

仮に国家が穀物を奪っても、国民は生き延びることができる。なぜなら我々が食べるのは小麦だけではないから。しかし当時のソビエト当局はそこで止まらず、あらゆる食料品を持ち去った。ウクライナの農民らが上記の不可能な目標を達成できなかったというのがその理由だ。特別隊がソビエト当局によって組織され、各家の隅々まで捜索。隠している食料品や貴重品がないかどうか探し回った。

人々が決して飢えから逃れられないように、作物の育つ畑は警備された。ウクライナの国境は封鎖され、難民は強制収容所に送られた。飢饉は公式には「食糧難」と呼ばれ、我が子を飢え死にさせた人々は、ソビエトによる支配の信用をおとしめたとして非難された。

こうした言説は、今回の戦争が「特別軍事作戦」と呼ばれているのを想起させる。首都キーウ(キエフ)近郊のブチャで起きた大虐殺をロシア当局が「フェイク」と形容していることにも通じるものがある。

現実として、400万人の男女並びに子どもがホロドモールの間に餓死した。多くは自分たちの最後の所持品と交換でパンを手に入れようとした。本来は口にしない草などを代わりに食べ、森でキノコや木の実を探し回った。母親らは、どの子どもを助けるかの選択に直面した。我が子を国の運営する孤児院に預ける母親もいた。生き残る可能性が高まるのを期待してのことだった。他の極端な飢饉と同様、人肉を食べる事例も報告された。

皮肉なことに、穀物も、ましてや飢えた人々から没収したなけなしの食べ物も、前述した産業機械の資金源にはならなかった。米ゼネラル・エレクトリック(GE)製のタービンを発電所などの設備に据え付けるため支払われたのは、安い価格で国家が買い取った金だった。売ったのは生きるのに必死な、33年当時の農民たちだ。

国家が運営する小規模な店舗のネットワークが作られ、国民から金を買い取った。飢饉の間設置されたこうした店舗は、遠く離れたウクライナの村にも存在した。先祖伝来の家財と引き換えに、飢えに苦しむ人々はわずかばかりの小麦粉を受け取ってパンを焼き、子どもたちに食べさせた。パンくずの一つ一つが貴重だった。

飢饉と並行して、ソ連政府はウクライナの知識人や有力政治家らの見せしめ裁判を行った。彼らはウクライナ人としての民族主義のほか、敵対的な西側諸国のためにスパイ活動を行っているといった罪で糾弾された。現在のウクライナ政府をナチス呼ばわりするのと同じくらい奇異な話だ。

反抗的なウクライナ人は、存続にかかわる脅威をソ連の国家計画と指導部とにもたらした。農業集団化政策がウクライナで失敗すれば、他の地域でも同じことが起きる可能性があった。民族運動が成功すれば、他の共和国もソ連政府の権威に異議を唱えかねなかった。実際、ホロドモールが凄惨(せいさん)を極めた33年3月には、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の共産党指導部が、スターリンに向けて次のように書いている。「飢饉はいまだウクライナの集団農場の農民たちを懲らしめるには至っていない」

数十年間、被害者たちはホロドモールについて公の場で語ることを許されず、それを飢饉と呼ぶことすらできなかった。公言すれば、反ソビエトのプロパガンダを行ったとして迫害に遭った。西側諸国はソ連との関係正常化に熱心だった33年当時、飢饉にも目をつぶった。現在に至るまで、ウクライナ国外にホロドモールを知る人がほとんどいないのも驚くことではない。

ソ連崩壊以降、ホロドモールはウクライナにおける国家建設の中心となった。過去30年間、犠牲者たちの記憶が呼び起こされ、複数の共同墓地の場所が特定された。証言は記録され、ホロドモールの歴史が学校で教えられるようになった。圧倒的多数のウクライナ人は、ホロドモールがジェノサイド(集団殺害)に当たる行為だと考えている。

しかし、当時数百万人が死亡した責任は誰も取っておらず、ロシアは飢饉の計画に携わったことを初めから否定している。誰も400万人が死亡した責任を取らないのなら、人命にはほとんど価値がなくなり、犯罪が簡単に繰り返されかねない。

過去30年間、ウクライナは不完全ながらもそれなりに機能する民主主義を作り上げてきた。市民社会が芽吹き、確かな国民性が育っていた。片やロシアの独裁政権は、野党と市民社会を抑圧することでその権力を強固なものにした。ロシア帝国に対する懐古の情も巧みに利用している。

2014年、ロシアはクリミア半島を併合し、ドンバス地方で戦争を始めたが、ウクライナは持ちこたえた。22年、もう容赦しないとばかりにロシアはウクライナへの支配を確立するべく、従来通りの戦争を仕掛けてきた。

しかし、歴史が繰り返すとは限らない。今日のウクライナには自前の国家やプロフェッショナルな軍隊、市民社会がある。そしてより重要なことだが、国際的な支援も受けている。西側との国境はもはや封鎖されてはいない。欧州は数百万人のウクライナ難民を迎え入れた。かつての農民たちが夢にも思わなかったことだ。西側は、ウクライナが国の存亡をかけて戦うのを助けている。

ロシア政府がどれだけ遠回しな表現を駆使しようとも、真実は隠せない。常に表に出てくる。まさにホロドモールがそうだったように。事実、ホロドモールは現行の戦争を歴史的観点から捉える助けとなり得るし、それが起きた理由に対する理解も深めてくれる。

テーブルの上のパンくずを見るたびに、筆者は祖母が生き延びたあの飢饉を思い浮かべる。そして、同じ歴史を決して繰り返してはならないと改めて考える。

ダリア・マッティングレー氏はウクライナ出身の歴史家で、ホロドモールを専攻する。博士号を取得した英ケンブリッジ大学でソビエト・ロシア史を教えるほか、カナダのオタワ大学に設置された現代ウクライナに関するセミナーの選考委員にも名を連ねる。記事の内容は同氏個人の見解です。

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