習主席の中国サッカー大国化計画はなぜ失敗したのか

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AFCチャンピオンズリーグの試合に向かうリカルド・グラールら広州恒大の選手=2017年/Zhong Zhi/Getty Images

AFCチャンピオンズリーグの試合に向かうリカルド・グラールら広州恒大の選手=2017年/Zhong Zhi/Getty Images

ゴールドラッシュ

中国サッカーが直面した数々の試練を物語る一つの事例として、海外のスター選手たちの流入が挙げられる。海外で生まれ育った彼らは、CSLに移籍し、中国の男子代表チームに入る資格を得るために中国国籍を取得した。

中国人の家族を持つ海外の選手を迅速に帰化させることが、中国サッカーのレベルを上げる手っ取り早い方法と考えられていた。

かつてイングランドのアーセナルに所属していたニコ・イェナリス(現在は李可という名で知られる)と、イングランドのエバートンでプレーしていたティアス・ブラウニング(蒋光太)はともに中国系で、帰化した後、中国代表入りを果たした。

一方、5人のブラジル人、フェルナンド(費南多)、アロイジオ(洛国富)、エウケソン(艾克森)、リカルド・グラール(高拉特)、アラン・カルバーリョ(阿蘭)の帰化については、5人が中国の血統を持たないことから論争を呼んだ。

しかし、彼らの帰化に懐疑的な人々は、彼らが帰化したのは好況期で、当時はサッカー界にどんどん資金が流入していたと指摘するだろう。実際、パンデミック中にこの5人のブラジル人は全員中国を離れ、戻ってきたのは2人だけだった。

グラールは、21年に所属チームである広州恒大の給料未払いを理由に中国を去り、中国国籍も放棄した。

中国国籍を手放したのはグラールだけではない。ペルーで生まれ育ったロベルト・シウチョも中国国籍を放棄した1人だ。

シウチョは、19年にCSLの強豪、広州恒大に移籍した後、すでに亡くなった中国人の祖父を通じて中国に帰化するために、ペルー国籍を放棄した。

しかし数年後、シウチョはペルー国籍を再取得し、古巣のサッカークラブ、ウニベルシタリオに戻った。

転機となったのは、新型コロナウイルスのパンデミックだった。

「19年は中国で素晴らしい年だった。私の家族も中国を訪れ、その素晴らしさを体験することができた。しかし、その後パンデミックが発生した」とシウチョは述べ、さらに次のように続けた。「(ある時)1年もの間家族と会えず、規則により国境が閉鎖されている間は家族を中国に連れてこられなかった。そのため、多くのサッカー選手が中国を離れた」

新型コロナが転機に

06年のワールドカップを制し、広州恒大でシウチョの最初の監督だったファビオ・カンナバーロ氏も、21年に広州恒大の監督を退任した際、シウチョと同様の感想を述べ、国営メディアに「コロナで全てが変わった」と述べた。

CSLの黄金期を代表する他の外国人選手たちも自由移籍や相互解除により退団した。その中にはフッキ、パウリーニョ、アレックス・テイシェイラという3人のブラジル人選手も含まれている。この3人の移籍金の総額は1億5000万ドル以上だった。

テイシェイラは帰化申請を取り下げ、CSL史上最高の選手の1人と見られているパウリーニョも退団を決めた理由としてコロナを挙げた。

中国の厳格な「ゼロコロナ」政策により、クラブは「生物学的に安全な」場所でしか練習や試合ができず、選手たちは数カ月間、その場所から出られなかった。

「どこにも行かれず、何もできないのは精神的にきつかった。しかし、サッカーを続けるにはそうするしかなかった」とシウチョは振り返った。

また中国各地で感染が拡大し、ロックダウン(都市封鎖)が行われる中、試合が延期されることも多く、選手たちのフラストレーションは高まった。また試合ができても、熱気のない無観客のスタジアムで行われたため、多くの選手たちがホームシックになった。

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