(CNN) 世界最初のコンピューターゲームは日本が発明したわけではない。その栄誉は米マサチューセッツ工科大学(MIT)が1962年に生み出したゲーム「スペースウォー!」のものだ。
しかし日本はこれ以降、ほとんど比類のない情熱でゲーム文化を受け入れてきた。文化的に巨大な存在となった「スーパーマリオ」や「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が登場する一連のゲームから、「メガドライブ」や「ゲームボーイ」といった各時代を象徴するゲーム機に至るまで、ゲームの世界は数十年にわたり東京がリードしてきた。
ビデオゲームの専門家で著書もあるブレイク・ハリス氏は、「日本の貢献がなければ、ビデオゲーム産業は存在しなかっただろう」と指摘。「少なくとも、今日のゲーム産業に似たものはなかったはずだ」と話す。
以下では、歴史を通じて最も重要なビデオゲーム関連の日本の発明8選を紹介する。
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スペースインベーダー(タイトーのアーケードゲーム)1978年
最初のアーケードゲームの一つ「スペースインベーダー」は日本国内のビデオゲーム熱に火を付けた。
発売の数週間前には、人気SF映画シリーズ「スター・ウォーズ」第1作の劇場公開が開始。こうした文化的な出来事と、降下してくる異星人をレーザー砲で撃つというシンプルな方式が相まって、スペースインベーダーはすぐにヒットを記録した。
タイトーは1978年末までに日本で6億ドルの売り上げを記録したほか、スペースインベーダーをプレーできるゲーム機10万台を設置した。
パックマン(ナムコのアーケードゲーム)1980年
スペースインベーダーのわずか2年後に発売された「パックマン」は、シューティングゲームが圧倒的に多かった市場に投入され、迷路内で追いつ追われつするジャンルを開拓した。このジャンルでは以来、数え切れないほどの模倣作が生み出されてきた。
ビデオゲームの世界記録を調査する米ツインギャラクシー社は1990年代後半、中古ゲームのオークションを訪れ、平均的なパックマンのゲーム機のプレー回数を算出。こうした調査結果などに基づき、同ゲームが20世紀の間に100億回以上プレーされていたと推定した。
開発者の岩谷徹氏は一時、幽霊を食べる黄色いパックマンについて、2切れ欠けたピザから思いついたとの話を冗談交じりに広めていたが、後になって「口」という漢字に丸みを持たせたものが元になっていると明かした。
ファミリーコンピュータ(任天堂の家庭用ゲーム機)1983年
「ファミコン」という名称の方でよく知られているファミリーコンピュータ。このゲーム機はすぐに日本の象徴となった。ハリス氏は「ファミコンは非常に大きな成功を収め、80年代末ともなると日本家庭の37%にあった」と話す。
しかしファミコンが83年に日本で市場投入された時、ビデオゲームは米国で危機に直面していた。ビデオゲーム熱で稼ごうとして低品質な製品が大量に出回り、顧客の離反を招いていた。
任天堂はこのため、米国におけるファミコンの発売を2年間延期。米市場に合わせて当時流行のマシンだったVCRに近い形にゲーム機を改造し、「ニンテンドーエンターテインメントシステム(NES)」と名称を付け直した。
あとはソフトウエア面の質がものをいい、NESは米国のゲーム産業を復活させた。
ゲームボーイ(任天堂の携帯型ゲーム機)1989年
家庭用ゲーム機に革命をもたらした任天堂はその後、携帯型ゲーム機に焦点を移した。ゲームボーイは携帯型ゲーム機の世界に革命を起こし、そのデザインは時代の象徴となった。
モノクロのスクリーンは濃度が異なる4階調の灰色しかなく、その仕様は通常のゲーム機と比べると貧弱だった。しかし、これによりバッテリーが長持ちするようになり、価格も低下。そして、これこそ人々が携帯型ゲーム機に求めていたものであったことが判明した。
任天堂はさらに、無名のロシアのゲーム「テトリス」の権利を取得するよう説得された。テトリスはロシアの科学者アレクセイ・パジトノフ氏が1984年に開発したもの。このテトリスが大ヒットしたことを受け、ゲームボーイは大人にも子どもにも人気のゲーム機となった。
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次回「ゲームに変革をもたらした日本製品8選<下> ソニックからポケモンまで」は1月2日公開