ANALYSIS

ロシアに忍び寄る過去の亡霊

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モスクワ近郊のコンサートホールが襲撃を受け、多数の死傷者が出た

モスクワ近郊のコンサートホールが襲撃を受け、多数の死傷者が出た

(CNN) 娯楽施設に銃を持った男たち。冷たいコンクリートの床に横たわる遺体。こうした殺人行為がモスクワという守られた安全な環境でも起こりうるという恐怖。

22日夜の残忍な襲撃の恐怖も冷めやらぬ中、クロクス・シティー・ホール周辺の状況は、22年ほど前に筆者がドブロフカ劇場の外で経験したものとそっくりだった。あの時はチェチェン人の銃撃犯が800人を人質にして立てこもり、特殊部隊の突入で幕を閉じた。

2002年の襲撃事件は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が行っていたイスラム教過激派との戦いにおける数多くの恐ろしい出来事の一つだった。だが22日の事件で、そうしたむごたらしい過去が、実際に消え去っていたかもしれないが、再び姿を現して、ロシア政府に襲い掛かったことが明るみになった。

世界は大きく様変わりしたものの、プーチン氏が直面しているのは02年当時と同じようなイスラム過激主義の敵だ。犯行声明や米当局の事前警告が示すように、今回の事件が過激派組織イラク・シリア・イスラム国(ISIS)のアフガニスタン分派「ISIS―K」の犯行だったとすれば、ロシアが南部のイスラム過激主義を力で弾圧したことを受け、若い世代の過激主義者がロシアを狙っていることになる。

20年前のドブロフカ襲撃事件の実行犯は、ロシアの残忍なテロ対策が生んだ危険な副産物だった。00年代初頭、ロシアはテロ対策の一環で、徴兵年齢に達した数百人のチェチェン人男性を処刑した。

22日の襲撃犯はインターネット上で芽生えた思想に端を発していると思われる。イラクやシリアの「カリフ制国家」が短命に終わり、中央アジアとアフガニスタンで厳しい弾圧にあったイスラム過激主義がふつふつと怒りをたぎらせていた。

20年におよぶ国家による弾圧は、新たに芽生えた怒りの残忍行為を抑えることはできなかった。プーチン氏はロシア国内の北コーカサス地方でイスラム過激主義を容赦なく弾圧し、カドイロフ家率いる野蛮な軍隊と手を組んで、チェチェンの反政府分子を弾圧した。何年かはそれも功を奏したように見えたが、問題の根絶には至らなかった。イスラム過激主義の脅威が新たに以前より一層歪(ゆが)んだ形で復活し、中東におけるロシアの失策と残虐行為に苦痛を与えようとしている。

一つだけ20年前とは異なる点がある。ロシア政府の対応だ。

クロクス・シティー・ホール事件の映像を見ると、襲撃犯はごった返す金曜の夜のショッピングモールを、ずいぶん長いこと邪魔されることなく駆け抜けていったようだ。公共スペースに危険が迫っているとの警告を、米国は数週間前から度々ロシア政府に公表していたにもかかわらずだ。

02年10月の場合、ロシア政府は非情ではあるが有効な戦術で対応した。数日間にわたる交渉と持久戦の末、精鋭部隊は催眠ガスを投入して劇場全体を無力化した。

正面突入という血塗られた選択肢と比べれば、想定される死傷率は許容範囲内かつ対応可能と判断されたようだ。

ロシア当局は襲撃犯に一斉奇襲を仕掛ける計画を救急隊にも明かさなかった。なんともむごたらしい計画だったが成功した。犠牲者の割合を約15%に収めることが、許容可能な目標だったとすればの話だが。

22日、こうした政府の対応は見られなかった。襲撃犯も事件後すぐに逃亡することができたようだ。

それどころかロシア政府は、西側諸国が先に情報を知っていたこととウクライナ政府の関与を無理矢理結び付けて責任をなすりつけている。

ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官は、襲撃犯が地球上で最も戦闘が激しく、厳重に警備された国境を越えてウクライナに逃亡を図ったと発言した。この説明だけでも、ロシア政府は情報空間を厳格に統制しているにもかかわらず、事件の説明に苦慮していることがうかがえる。

ロシア政府の広告塔である放送局「RT(ロシア・トゥデイ)」のトップを務めるマルガリータ・シモニャン氏は、一切証拠を示さずに、ISIS襲撃犯がウクライナ人だったとさえ示唆した。国会議員の幹部の1人も、今回の襲撃に残された「ウクライナの痕跡」に対する報復は戦場で果たさなければならないとほのめかした。ウクライナは襲撃事件に一切関与していないと強く否定している。

現在プーチン氏がどれほど社会支持を失い、人員がひっ迫しすぎているかも露呈した。物言わぬモスクワ市民の安全は、同氏が勝手に始めたウクライナ戦争で完全に犠牲にされた。特殊部隊は戦死したか、他の任務に忙しく、現場に急行できなかった。警官の一部までもが前線に送られている状況だ。

それどころか広大なショッピングセンターは02年と同じくテロ行為に遭い、同じく衝撃的なモスクワの治安不備の犠牲となった。ドブロフカ事件後には批判の声が相次いだ。一体全体、なぜ武装した迷彩服の銃撃犯がワゴン車でモスクワ市内の大規模な劇場に乗り付け、中に入ることができたのか。20年後、まったく同じことが起きた。今やプーチン氏の支配力は、監視カメラや顔認識など、02年には夢にも思わなかった監視体制で守られているというのに。

だが、プーチン氏は本人が言うほど統率できているわけではない。側近だったエフゲニー・プリゴジン氏の短命に終わったクーデター同様、プーチン氏の絶対的権威のはりぼても一瞬はがれ落ちることがある。はりぼての下は大混乱だ。ロシアの権威主義制度でも抑えきれないものは山ほどある。ロシアの制度が頼みにしているのは家父長制度、忠誠、汚職、そしてツァー(皇帝、この場合はプーチン氏)が介入して明白な悪を正すという奇妙な感覚だ。だが同氏は悪を正しはしない。自分が統治する国がどれほど機能不全か、本人もつねに把握しているわけではない。だからこそ4人の若者が自動小銃を携えて、モスクワの広大なショッピングモールに乗り込み、火をつけ、大勢を射殺したのだ。

今後想定される展開は二つ。まず、ウクライナと西側諸国が何らかの形で関与したことを示唆する試みは今後も続くだろう。ロシア政府はこの機に乗じてウクライナ戦争を正当化し、国民の安全を脅かすより大きな切迫した脅威に対抗する口実として利用しようとするだろう。想定する犯人への復讐(ふくしゅう)を果たすために、ロシアが新たな手段を見つけられるかどうかは定かでない。すでにロシアはウクライナに全力を注いでいる。

第二に、歴史が再び繰り返される可能性が高い。ドブロフカ事件の2年後には航空機が相次いで爆破され、ベスラン学校占拠事件という惨劇も発生した。ロシアは不可侵と言われてきた分野で弱さを露呈し、若いイスラム主義の不穏分子は優位に立つことができた。

今回の場合、ロシアと西側諸国との関係は大きく様変わりしている。02年当時、ドブロフカ事件でロシア政府は渋々ながらも、米国が主導するテロとの戦いに歩み寄った。20年前、米政府とロシア政府は束の間ながらも共通の目的を見いだせたように思われた。だが今回ロシア政府は襲撃を警告する西側の情報機関を無視し、政治問題として片づけてしまった。そして西側が事前に襲撃の可能性を知っていた(警告もした)という理由だけで、責任の一部を転嫁しようとしている。

プーチン氏にとって22日夜の攻撃は、本人も身に覚えのある暗黒時代の新たな幕開けを告げた。残忍かつ非情な戦術をもってしても完全に排除できない国内の敵。責任を転嫁しなければならない西側諸国。最も脆弱(ぜいじゃく)な標的を守るための基本的な資源を欠いた国家。

いずれもすでに経験したことばかりだ。ここでもやはり問題は、ロシア国民が今一度プーチン氏を庇護(ひご)者として受け入れるかどうかだ。

本稿はCNNのニック・ペイトン・ウォルシュ記者による分析記事です。

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