空母からヘリ投棄も、サイゴン陥落で命を救った米軍将校たち 指揮系統の外で英断

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難民が物資投下後に離陸しようとするチヌークヘリにしがみつく様子=1975年4月14日/ Bettmann/Getty Images

難民が物資投下後に離陸しようとするチヌークヘリにしがみつく様子=1975年4月14日/ Bettmann/Getty Images

4月28日に北ベトナム軍がサイゴンのタンソンニャット空軍基地を攻撃し、ここから航空機で脱出することは不可能になった。市内には、ほかに大型機の発着できる場所がなかった。

残された道はヘリによる脱出のみ。そこで米国が実施したのが、フリークエント・ウインド作戦だ。

ラジオで人気歌手ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」が流れたら、それを合図に米国人と一部の南ベトナム市民が指定された場所に集まり、そこからヘリで市外へ避難することになっていた。

米海兵隊と空軍、CIAのヘリ計100機あまりが、沖合で待機する米海軍の艦艇に避難者たちを運んだ。

大統領閣下の司令(ではなかった)

チェンバース氏が海上で司令の判断を下したころ、米軍ヘリの操縦士たちはサイゴン上空で同様の局面を迎えていた。

海兵隊の輸送ヘリCH46の操縦士だったジェリー・ベリー少佐は、作戦中に14回、沖合の米軍艦からサイゴンへ飛んだ。最後の1回で、南ベトナムからの米軍撤退が完了した。

だが、その幕引きは決して一筋縄ではいかなかった。

ベリー氏は4月29日午後に、サイゴンの米大使館へ飛んでグラハム・マーティン大使を救出するよう命令を受けた。

だがマーティン氏本人も大使館を警備する海兵隊員も、その連絡を受けていない様子だった。

ベリー氏がヘリを着陸させ、警備チームに大使を迎えに来たと伝えたが、機内へ誘導されたのは70人ほどのベトナム人だった。

米大使館の敷地内で米海兵隊のヘリに乗り込む避難民=1975年4月30日/Nik Wheeler/Corbis Historical/Getty Images
米大使館の敷地内で米海兵隊のヘリに乗り込む避難民=1975年4月30日/Nik Wheeler/Corbis Historical/Getty Images

その後も艦艇との間を行き来したが、待っていたのは避難する市民ばかりで、大使の姿はなかった。大使館まで飛ぶたびに、外の群衆は増えていくのが見えた。その一方で、北ベトナム軍が次第に近づいてくる。

ベリー氏は当時、「これではきりがない」と思ったのを覚えているという。

だが少なくとも大使を救出するために、だれがが取り仕切らなければならない。

午前4時ごろには、北ベトナム軍がいよいよ大使館に迫っていた。

「戦車が道路を走ってくるのが見えた。大使はまだ館内にいた」

ヘリが屋上に着くと、さらに避難者たちが乗り込んで来たが、マーティン氏の姿はない。

ベリー氏は操縦席に護衛の下士官を呼んだ。そして、大使をヘリに乗せるよう、フォード大統領から直接の命を受けていると伝えた。

「私にそんな権限はなかった」と、同氏は振り返る。だが時間がないことは分かっていたし、すでに十数回も往復を繰り返したことでいらだちが爆発していた。

ベリー氏はできる限り操縦士然とした声色で、軍隊独特の命令表現を使い、「大統領より告ぐ。退去せよ」と、マーティン氏に言い渡した。

ベリー氏によれば、マーティン氏はついに直接命令が来てよかったという表情で、素早くヘリに乗り込んだ。「オリンピックの短距離走チームのようなスピードだった。私がこれまでも言ってきたように、大使はあの時、だれかから脱出しろと命じられることを、ひたすら望んでいたのだろう」と、同氏は語る。

マーティン氏を乗せたヘリは米海軍の揚陸指揮艦ブルーリッジに向かった。同作戦でのベリー氏の飛行はこれが14回目となり、初回から約18時間で終了した。

その数時間後、北ベトナム軍の戦車が米大使館に程近い南ベトナム大統領府の門を破って突入し、ベトナム戦争は終結した。

ベトナムの遺産

ベリー氏もチェンバース氏も当時、指揮系統の外で、あるいは指揮系統に逆らって決断を下す必要に迫られ、それが命を救った。

これが現在に至るまで、米軍を敵軍から際立たせる特性になっていると、チェンバース氏は主張する。

同氏によれば、米軍では「若手が率先して行動し、責任を負うことを教えられる」のに対し、ほかの軍隊では「政治将校なり、ほかのだれかなり」があらゆる決断を牛耳っているという。

「一人ひとりが考え、一人ひとりが行動することをわれわれは望んでいる」――そう語る黒人のチェンバース氏は、非白人として初めて米空母の指揮を執った人物だ。

「自分が責任者にならなければ。何かをする必要がある時に、毎回国防総省まで伺いを立てるわけにはいかない」と話す。

チェンバース氏がサイゴン沖の決断で処分を受けることはなかった。あの日にヘリを投げ捨てた艦船がミッドウェーだけではなかったからか、あるいは同氏がすぐ次の救助活動に派遣されたからか、理由は自身にも分からないという。

海軍でのキャリアに傷がつくこともなかった。ヘリの投棄から2年後、同氏は少将に昇進した。

駐ベトナム大使の退避作戦を取り仕切ったベリー氏と、ベリー氏のヘリでベトナムから出国した男性がCH46ヘリの前でポーズを取る様子=2010年4月30日/Cpl. Aubry Buzek/US Marines
駐ベトナム大使の退避作戦を取り仕切ったベリー氏と、ベリー氏のヘリでベトナムから出国した男性がCH46ヘリの前でポーズを取る様子=2010年4月30日/Cpl. Aubry Buzek/US Marines

ベリー氏は現在80歳。ヘリでの救出作戦から50周年の節目を前にしたインタビューで、サイゴン陥落を振り返り、「失った命の数を考えれば、あれを勝利とは呼べない」と語った。

同氏は一方で、ベトナムでの経験は現在の米国にも教訓を与えていると話す。北大西洋条約機構(NATO)やウクライナのような同盟諸国、友好国との信頼関係を維持するべきだという教訓だ。

ベリー氏は「米国は当時、南ベトナムへの支援を約束しておきながら、75年3月の最終攻撃が始まってからは何ひとつ実行しなかった」と指摘し、「約束をしたら最後までやり遂げるべきだ」と、力を込めた。

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