ロベルト・バルティーニ、世界で最も謎めいた航空機設計者<上>

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バルティーニは時代の先を行った天才とみられている/NOV/Science Photo Library

バルティーニは時代の先を行った天才とみられている/NOV/Science Photo Library

若い頃の情熱

チャンパリア氏によると、バルティーニの経歴はロシアに住む娘にも分かっておらず、若い頃の詳細に関して公式記録の裏付けはない。

ただ、オーストリア・ハンガリー帝国の小さな町、カニジャで生まれた点については一定の見解の一致がみられる。バルティーニは当時17歳だった地元貴族の女性と、近隣の町フィウメの男爵との間に非嫡出子(ひちゃくしゅつし)として生まれたようだ。カニジャは現在のセルビアのハンガリー国境近く、フィウメは現在のクロアチア領リエカに位置する。

チャンパリア氏によると、悲劇的なことに、母親の女性は自殺した。スキャンダル隠しを図った家族が子どもを里子に出した後のことだった。3年後、ルドビコ・オロス・バルティーニ男爵は息子を実子と認め、その後は自分の子どもとして妻と一緒に育てた。

バルティーニは15歳のとき、ロシア人操縦士の乗る最初期の量産機「ブレリオXI」が参加した航空ショーを見学する。これがきっかけとなり、若きロベルトの中で航空機への情熱が芽生えたようだ。しかし、探求に残された時間は少なかった。1916年、彼はオーストリア・ハンガリー軍に徴兵され、ロシア帝国と戦うため第1次世界大戦の東部戦線に派遣された。

赤い男爵

バルティーニはロシア人パイロットが「ブレリオXI」を操るのを見て、15歳で航空機に魅了された/Philippe Huguen/AFP/Getty Images
バルティーニはロシア人パイロットが「ブレリオXI」を操るのを見て、15歳で航空機に魅了された/Philippe Huguen/AFP/Getty Images

バルティーニはすぐに身柄を拘束され、戦争捕虜としてシベリアの収容所に送られることになる。そこで共産党の文献に親しむようになり、終戦までの時を過ごした。釈放後は帰国の資金が足りず、上海でタクシードライバーを務めたこともある。やがてフィウメに戻ると、同地はオーストリア・ハンガリー帝国崩壊後の政治的混乱のただ中にあった。

学問を修めたいとの期待を胸に、バルティーニはイタリアに移住し、ミラノ工科大航空工学科やローマ近郊の飛行学校に通った。当時の彼はすでに完璧なイタリア語を話していたが、これはフィウメの住民には珍しいことではなかった。

21年には、「ロベルト・オロスディ」の名前で結党間もないイタリア共産党に加入。堪能な語学力や兵器の知識、貴族の地位を生かして有望な諜報(ちょうほう)員となった。党内でのあだ名は、貴族の出自と共産主義の赤にちなみ「赤い男爵」だった。

しかし、ムッソリーニが22年後半にクーデターで権力を奪取すると、バルティーニは警察に追われるようになる。身柄拘束を避けるため、党はバルティーニを航空エンジニアとしてソ連に派遣。彼の才覚と航空分野でのイタリアの知見(当時は世界最高水準だった)を社会主義の祖国にささげた形となった。

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