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ウクライナ各地を1万6000キロ旅した写真家、その目に映ったものは

侵攻の数週間後、飼い犬を伴いキーウ郊外のイルピンへ逃れるウクライナ人たち

侵攻の数週間後、飼い犬を伴いキーウ郊外のイルピンへ逃れるウクライナ人たち/Byron Smith

(CNN) バイロン・スミス氏の新たな写真集には、どうにかして戦火を逃れようとするウクライナ人の姿が写っている。ペットの犬たちと車の中に押し込められた人々。ポーランド行きの列車に乗るのを待つ人もいれば、ただ郊外の街路へ向かって幼子と荷物を抱え移動する人もいる。報道写真家として、同氏は作品の中でしばしば移民の苦難に焦点を当てる(そのため2016年と17年には、ギリシャの難民キャンプや過激派組織イラク・シリア・イスラム国<ISIS>支配下のイラク・モスルの戦闘地域を訪れた)。そこでの同氏の本能は被写体とは真逆であり、こちらから危険へと向かっていくものだった。

「感覚として、これだけ大量の人々が避難するのを目の当たりにすると、自分がいくら同情してみたところでそれは偽物だろうという気がする。彼らが何から逃げているのかを実際に現場で確かめなければ、真に共感することは出来ないだろう」。CNNのビデオインタビューに対し、スミス氏はトルコ・イスタンブールからそう語った。

スミス氏は、ロシアによる一方的な侵攻を受けた22年2月からの1年間、ウクライナ中を旅した。その日々を記録した写真集「Testament'22(仮訳:遺言'22)」は、黙想にふける戦時下の国家の肖像に他ならない。192ページの大作にはカラーとモノクロ、抵抗と絶望、希望と恐怖とが隣り合わせに配置されている。

米国の写真家が捉えた極めて陰鬱(いんうつ)な写真の数々が、紛争の恐ろしさを物語る。様々な推計によれば、今回の紛争では既に双方で数十万の命が失われた。ウクライナ首都キーウ郊外のイルピンで撮影した写真では、当局者らが民間人1人を担架に乗せ、半壊した橋を渡って避難させている。ロシア軍が数千件の戦争犯罪を犯したとされる近郊のブチャには、顔を覆った墓掘り作業者の姿。悲しみにうちひしがれた様子が見て取れる。(ロシアはこの町での民間人を狙った攻撃を否定。路上に倒れた遺体の画像は偽物だと主張している)

キーウ郊外のイルピンで市民の避難に協力する地元警察/Byron Smith
キーウ郊外のイルピンで市民の避難に協力する地元警察/Byron Smith
2022年4月、ロシア軍が撤退したブチャで新たに到着する遺体のための穴を掘る墓掘り作業者/Byron Smith
2022年4月、ロシア軍が撤退したブチャで新たに到着する遺体のための穴を掘る墓掘り作業者/Byron Smith

この他にも写真集に収録された136点の写真には、ロシア軍の爆撃によって殺害された身元不明の遺体が写っている。「我々は中間地帯にいた。公園の真ん中にいたのは我々と複数の遺体だけだった」と、スミス氏はこの写真について語り、自身と少人数のジャーナリストのグループがイルピンでの砲撃に見舞われたときのことを振り返った。「現場では市街戦の音が聞こえる。頭上で風を切る音が聞こえると身を潜める。それが何かは分からない。見当をつけることも出来ない」

「当時を振り返ることさえ難しい」と、同氏は付け加えた。見るからに苦しげな様子で。

とはいえ戦争は、人間性の最悪の部分と最良の部分の両方をもたらし得る。スミス氏の写真はコミュニティーや慈悲の心、そしてある種の活発な抵抗にもスポットを当てる。こうした抵抗を通じ、ウクライナはこの数カ月で相当程度の領土獲得を果たした。写真に写る市民たちは瓦礫(がれき)を片付け、隣人の家を再建する。子どもたちは廃棄されたロシア軍の弾薬庫からクラブハウスを作る。高齢者たちは機雷の敷設されたオデーサ沖で一泳ぎ。地元警察による遊泳禁止の呼び掛けも意に介さない。

ウクライナ南部ミコライウ州の前線で言葉を交わすウクライナ軍の兵士/Byron Smith
ウクライナ南部ミコライウ州の前線で言葉を交わすウクライナ軍の兵士/Byron Smith

「私が目にした気質は、ある程度そこに要約されている」。スミス氏は泳ぐ高齢者らについてそう語った。「前線の人々から、単に日々の生活を送る人々に至るまで」

スミス氏の旅の起点はポーランド南東部。ロシアによる全面侵攻のわずか数日後だった。同氏はそこで、大挙してウクライナから西側へ脱出する人々の記録を開始した。間もなく国境を越え、リビウ経由でキーウを目指した。

「始まりから、まさにカオスだった」と、同氏は当時を振り返る。

最初の混乱から前線の確定へと至る中、スミス氏はウクライナを縦横に行き来し、異なる複数の仕事をこなした。自らの推計によれば、開戦から1年で約1万6千キロを移動したという。

フリーランスのため、機材などの確保や仕事を見つける負担は覚悟しなくてはならなかった。ウクライナ国内の移動はしばしば「金と時間がどれだけあるか」に左右されたという。だが、そのおかげで比較的知られていないエピソードを探し出す自由はあり、戦場となった町をよく訪れた。解放から数カ月後の町に入り、そこで起きた出来事の全貌(ぜんぼう)を明らかにした。

「同僚の多くは新聞社のカメラマンだ。彼らは現場で、日々の新聞用の写真を撮る。そうしてその日の紙面に(彼らの写真を)載せる。(しかし)私には立ち戻って写真の質を高める時間があるので、異なる手法による提示を試みている」。スミス氏の説明によれば、自身の写真集は「よりゆっくりとしたジャーナリズムの一形態」となる。

22年3月、ポーランド行きの列車に乗ろうとリビウの駅で列をなす避難民。国連によると開戦後の1週間足らずで、100万人の避難民が祖国を後にした/Byron Smith
22年3月、ポーランド行きの列車に乗ろうとリビウの駅で列をなす避難民。国連によると開戦後の1週間足らずで、100万人の避難民が祖国を後にした/Byron Smith

「多少なりとも体系的なやり方で、これ(紛争)を扱いたかった。大事件を次から次へと追っていくのではない。人々に届けたかったのは、全てにおいてより抑制的で、恐らくは地に足の付いたイメージだ」

写真集はウクライナの独立記念日に合わせて、先々週末に発売された。所々、穏やかで親しみやすい瞬間を織り交ぜてある他、手書きのメモを通じスミス氏の個人的な回想にも触れられる。時系列にこそ並べられていないものの、収録された写真は読者をスミス氏が言うところの「心を動かす物語」へと導く。始まりはロケット攻撃の場面。人々が逃げていく、開戦当初の数日間だ。

冒頭を飾る別の写真では、一人の女性が後に命を落とすパートナーに別れを告げている。場所はポーランドと接する国境検問所だ。スミス氏によれば、「二人が一緒に写る最後の写真の一つ」だという。「つまり、(写真集における)ある種の伏線であり、今後訪れるあらゆる暗闇の予兆となっている」

ポーランド国境の町メディカで最後の別れの時を過ごす男性とガールフレンド。男性はこの後ウクライナへ入り、自国を守る戦いの中で命を落としたという/Byron Smith
ポーランド国境の町メディカで最後の別れの時を過ごす男性とガールフレンド。男性はこの後ウクライナへ入り、自国を守る戦いの中で命を落としたという/Byron Smith

写真集のタイトルは、ウクライナの詩人、タラス・シェフチェンコが1845年に発表した詩「遺言」にちなむ。その中で作者は、「なつかしいウクライナ」の野原、川、草原に抱かれる形で自らを埋葬するよう求めている。スミス氏は、意を決して初めてウクライナ入りする際にこの詩を読んだのを覚えている。

「内容はほぼ(シェフチェンコの)遺言状だ。そしてこの戦争地域に乗り込み、ロシアが侵攻してくる中、自分はと言えばこんな感じだ。『何と、自分には実のところ遺言状がない。両親や家族への遺言はおろか、誰にも何一つ残していない』。その思いが私を少しばかり刺激し、この物語を語る上での支えになった」

キーウを後にし、リビウの駅に到着する列車の窓から外を眺める女性/Byron Smith
キーウを後にし、リビウの駅に到着する列車の窓から外を眺める女性/Byron Smith

写真集はまた、ウクライナの人々にとっての遺言という役割も果たす。スミス氏は彼らの物語を世界と共有しなくてはならないとの思いに駆られた。出版社はスミス氏の仕事がロシアの犯罪を裏付ける「確かな証拠」の提示に寄与すると信じている。

「誰からも正式に作品の提出を求められたことはないが、米連邦議会では(写真を)紹介してもらった。駐米ウクライナ大使もそこにいた」とスミス氏は明かす。「だからある程度のレベルでは、政策決定者の眼前に届いている。写真家にとってそれは夢だ。実際に何らかの種類のインパクトを与えていると感じられるから」

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