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米偵察機「SR―71ブラックバード」 かつても今も世界最速

NASA/Hulton Archive/Getty Images

米ロッキードが開発した戦略偵察機「SR―71ブラックバード」は冷戦時代、他のどの飛行機よりも高く、そして、速く飛ぶことができた。初飛行から半世紀以上が経過した今も、それは変わらない。

1950年代後半にひそかに設計されたSR―71は、宇宙に届きそうなほど高く、ミサイルを凌ぐほど早く飛ぶことができた。同機は現在も、水平飛行での最高飛行高度と、ロケットを動力としない飛行機の最高飛行速度の記録を保持している。

まだスパイ衛星やドローン(無人機)がなかった時代、撃墜も発見すらもされずに敵地に侵入するために開発された偵察機がSR―71だ。

熱を分散させるために黒く塗装された機体から「ブラックバード」という愛称が付いた。さらに流線型の細長い機体を持つ同機は、従来のものとは全く異なった航空機に見えた。

1997年の訓練飛行の様子/ Credit: NASA/Hulton Archive/Getty Images
1997年の訓練飛行の様子/ Credit: NASA/Hulton Archive/Getty Images

航空史研究家のピーター・マーリン氏は、「(ブラックバードは)50年代に設計されたにもかかわらず、今でも未来の飛行機に見える」と語る。

CIAの偵察機

1960年5月、ソ連の領空で航空写真を撮影していた米国の偵察機U―2が撃墜される事件が発生した。

  
      

この事件は、直ちに米ソ冷戦に外交上の波紋を投げかけ、米国は改めて、より速く、より高く飛行可能で、対空射撃を受けない新型偵察機の開発の必要性に迫られた。

「CIA(米中央情報局)が望んだのは、高度27キロ以上で高速飛行が可能な上に、可能な限りレーダーに探知されにくい偵察機だった」とマーリン氏は言う。

この野心的な偵察機の設計を託されたのは、世界最高の航空機設計者の一人であるクラレンス・ケリー・ジョンソン氏と、ジョンソン氏率いるロッキード内で組織された技術者で構成される秘密部門「スカンクワークス」だった。

「何もかも発明する必要があった。何もかもだ」とジョンソン氏は当時を振り返っている。ジョンソン氏は、ブラックバードたちが最初の退役をした1990年に死去した。

ブラックバードファミリーの最初の飛行機は「A―12」と命名され、1962年4月30日に初飛行を行った。計13機のA―12が作られ、同機はCIAが運用する極秘の特別プログラムとなった。

チタン製の機体

SR―71は、時速3200キロ以上での飛行を想定して設計されていたため、周囲の外気との摩擦で機体の表面温度が上昇し、従来の機体では高温で溶けてしまう。そこで機体の材料にチタン合金が採用された。チタンは高温に耐えられる上に鉄よりも軽い。

しかし、チタン合金の使用により別の問題が発生した。まず、チタン製の道具一式を新たに作る必要があった。通常のスチール製の道具を使用すると、もろいチタンは道具と接触した際に砕けてしまうためだ。

また、チタンそのものの調達が困難であることも判明した。「当時、世界最大のチタン供給国はソ連だった。米国政府はチタンを大量に購入する必要があった。恐らく架空の会社を使って購入したのだろう」(マーリン氏)

SR―71の1号機は、全く塗装されず、機体の銀色のチタン合金がむき出しの状態で飛行していた。SR―71が初めて黒色に塗装されたのは1964年のことだ。黒の塗料は、効率よく熱を吸収・放出し、機体全体の温度を下げることが分かった。こうして「ブラックバード」が誕生した。

「ブラックバード」ファミリー

ブラックバードファミリーの最初のモデル「A―12」から複数の派生型が開発された。


YF―12は、機首以外はA―12にそっくりだが、こちらは偵察機ではなく迎撃機だ。計3機が製造され、米空軍によって運用された。

M―21は、機体の後方に無人偵察機を搭載・発射するためのパイロンを備えていた。計2機が製造されたが、1966年に無人機が母機に衝突し、乗員の1人が死亡する事故が発生した。この事故を受け、M―21開発計画は中止された。

そしてA―12の最後の派生型であるSR―71は、1964年12月22日に初飛行を行い、その後30年以上にわたり、米空軍の情報収集活動を担った。計32機が製造され、ブラックバードファミリーの総数は最終的に50機となった。

ステルス機の先駆け

SR-71の機体には、世界で初めて飛行機に使われた複合材料の一部が含まれていた。この材料のおかげで、同機は敵のレーダーに発見されにくくなった。「当時はまだステルスという言葉が使われてすらいなかったが、同機は本質的にステルス機だった」(マーリン氏)

対空射撃が届かない高度で、ミサイルよりも高速で飛行可能な上に、レーダーでもほとんど発見されないため、SR―71はいとも簡単に敵の領空に侵入できた。

マーリン氏は、SR―71について、「敵が発見してミサイルを発射する頃にはすでに敵の領空を後にしているという発想だった」という。「しかし、当時はまだリアルタイム・データリンクが存在しなかったので、(SR-71は)上空からフィルム写真を撮影し、同機が基地に持ち帰ったフィルムを処理・研究していた」

SR―71の2つ並んだコックピット/Credit: Space Frontiers/Archive Photos/Getty Images
SR―71の2つ並んだコックピット/Credit: Space Frontiers/Archive Photos/Getty Images

結果的には、ブラックバードが敵に撃墜されることは一度もなかった。しかし、同機の信頼性に問題があり、全32機中12機が事故で失われた。また、運用や操縦が困難な飛行機でもあった。

「同機の準備にかなりの人手を要した。ブラックバードが出動する際には、スペースシャトルの打ち上げと同様に、基本的にカウントダウン(秒読み)が行われていた。乗員と飛行機の両方に相当な準備を要したためだ。想像を絶するほど多くの労力と人員だった」(マーリン氏)

また同機の操縦士たちは、高高度の極限状態に耐えられるように特別な服装をする必要があった。

マーリン氏は「彼らは基本的に、今日のスペースシャトルの乗員らが着ているのと同じ種類の宇宙服を着ていた」とし、さらに「高速で飛行していると操縦席が非常に暑くなるため、操縦士たちは長時間のミッションの間、自分たちの食事を窓ガラスに押し付けて温めていた」と付け加えた。

結局、ブラックバードがソ連の領空を飛行することは一度もなかった。1960年の事件後、米政府はソ連領空での飛行を完全に中止した。しかし、彼らは冷戦中、重要な役割を果たし、中東、ベトナム、北朝鮮といった他の重要な戦域で任務を遂行した。

NASAによる試験飛行の様子/Credit: NASA
NASAによる試験飛行の様子/Credit: NASA

1976年、SR―71は、飛行高度8万5069フィート(約2万6000メートル)、最高時速2193.2マイル(約3530キロ=マッハ3.3)という現在も破られていない世界記録を樹立した。しかし、スパイ衛星や無人機といった新技術の実用性が向上し、監視データがすぐに入手可能になったことから、ブラックバード計画は1990年に中止された(1990年代半ばに一時的に復活した)。

1999年に米航空宇宙局(NASA)がSR―71の最後の飛行を行い、その後、残ったブラックバードはすべて博物館に送られた。

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