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美容品に放射能が含まれていた時代

ORAU

1933年、フランスの首都パリで「奇跡のクリーム」が発売された。「科学的な美容品」と銘打たれたこのクリームは、血行促進や筋組織の引き締め、脂肪の低減、しわ取りといった効果をうたっていた。クリームを含む化粧品ラインアップの名称は「Tho―Radia」。原料である放射性元素のトリウムとラジウムにちなんだ商品名だ。

今となっては放射性物質を意図的に顔に塗る人はいないだろうが、1933年当時は放射能の危険性はまだ十分に理解されていなかった。この謎めいたエネルギーはフランスの物理学者アンリ・ベクレルによって1896年に発見されると、いつしか神話的な力があると思われるようになった。

「放射能への恐怖心が生まれる前に人々が知っていたことと言えば、せいぜいエネルギーを含有することくらいだったようだ」。米ジョージタウン大学のティモシー・J・ジョーゲンセン准教授(放射線医学)はこう語る。「歯磨き粉に入れれば歯が良くなり、フェイスクリームに入れれば顔につやが出るというニュアンスがあった。だが、それが真実であることを示す科学的な根拠は存在しなかった」

「Tho―Radia」の洗顔クリームはアルフレッド・キュリー博士の化学式に基づいて作られたとされる。この人物は実在し、本物の博士だったが、ノーベル賞を受賞したマリ・キュリー氏の家族とは関係がなかったという/ORAU
「Tho―Radia」の洗顔クリームはアルフレッド・キュリー博士の化学式に基づいて作られたとされる。この人物は実在し、本物の博士だったが、ノーベル賞を受賞したマリ・キュリー氏の家族とは関係がなかった/ORAU

放射能クリームに広告通りの効能はなかったものの、商品群の人気の妨げにはならなかった。ラインアップには口紅やパウダー、軟こう、石けん、座薬、カミソリの刃、エネルギー飲料に加え、コンドームまで含まれ、いずれも放射能の恩恵を解き放つと称していた。

まるで黄金

放射能を含む最初の商品が発売されたのは1900年代初頭。当時、放射能は全く新しい研究分野だった。発見の立役者とされたのはベクレルだが、「放射能」という言葉自体はポーランド出身のフランス人科学者、マリー・キュリーによって考案されたものだ。

医学界が早いうちにラジウムやX線撮影の活用に成功したことを受け、放射線治療の評判にあやかろうと、消費者ブランドも動き出した。

米オークリッジ大学連合の保健物理学者、ポール・フレーム氏は電話インタビューで「当時、医学ではX線とラジウムがさまざまな病気の治療に使われていた」と指摘。「知識のある人が適切に活用しさえすれば、放射能はがんの治療につながる可能性もある。ラジウムではないが、私たちは今でもがん対策に放射線源を使用している」と語る。

「ラジウム・ヘアトリートメント」の広告/Credit: H.W. Cherry/Library of Congress
「ラジウム・ヘアトリートメント」の広告/Credit: H.W. Cherry/Library of Congress

消費市場でのラジウム人気は絶大で、実際には放射能を持たない商品まで「放射性」を主張していた。「言ってみれば『ゴールドカードを持っている』と主張するようなもの。実際に金が使用されているわけではなく、ゴールドという言葉によって、価値がある重要なものだということを伝えているに過ぎない。当時のラジウムはこれに似た存在だった」(フレーム氏)

だが、放射能は人体に無差別の破壊的影響を及ぼすため、使用する場合はがん細胞に照準を絞る必要がある。放射性元素を日用品に活用すれば有益な効果が得られるだろうとの考えは、前提からして破滅的に間違っていた。

あごが外れる

放射性クリームの使用による危険性は果たしてどの程度のものだったのか。幸いにも大した被害は出なかった。「効果は一切なかったが、放射能レベルはごく低く、影響が出たとは思えない。結局、単なる話題作りの商品だった」(フレーム氏)

ただし、体内摂取を目的とした他の商品では死傷者も出た。中でも人気が高かったのは「Radithor」と呼ばれる「エナジードリンク」で、蒸留水に微量のラジウムを溶かしたものだ。「生けるしかばねのための治療薬」という大胆な宣伝文句を掲げたこの商品は、糖尿病から性力減退に至るさまざまな疾患に効果があるとうたっていた。

「Radithor」の瓶/Credit: John B. Carnett/Bonnier Corp. via Getty Images
「Radithor」の瓶/Credit: John B. Carnett/Bonnier Corp. via Getty Images

だが、この飲料は万能薬となるどころか、その最も著名な愛好者を死に至らしめる結果になる。米国の名士にしてアスリートだったエベン・バイヤーズは、長年にわたり1日3瓶、飲み続けたことで有名に。1932年に死亡した際、米紙ウォールストリート・ジャーナルは「ラジウム水の効果抜群、あごが外れるまでは」という見出しを打った。

ラジウムガール

登場間もない放射線の初の犠牲者になったのはバイヤーズではなかった。1920年代半には既に、ジョーゲンセン氏が「当時のiPhone(アイフォーン)」と呼ぶラジウム時計が流行品になっていた。

ラジウム時計を身に付けたところで大した危険はなかったが、蛍光塗料の塗布に携わる工場労働者は恐ろしい健康被害を受けた。

文字盤に放射性塗料を塗るのは緻密(ちみつ)かつ骨の折れる作業で、女性の仕事と考えられていた。こうした労働者は「ラジウムガール」と呼ばれ、唇を使って筆先を細く整えておくよう指示された。少量のラジウムを繰り返し摂取したことで骨が壊死(えし)する結果となり、女性たちはやがて「ラジウムあご」と呼ばれる症状に悩まされるようになった。

「ラジウムガール」の作業の様子=1922年/Credit: Public Domain
「ラジウムガール」の作業の様子=1922年/Credit: Public Domain

それでも、放射線障害が現れ、一部では被ばくした労働者が死に至るケースも出たにもかかわらず、知名度の高いバイヤーズの死ほど放射能商品の人気に影響を与えることはなかった。

とどめとなったのは、1938年の連邦食品・医薬品・化粧品法で虚偽表示を含む包装が違法になり、放射性商品のとっぴな宣伝をしづらくなったことだ。この時には既に、一般市民の間でこうした医薬品を求める声は減っていた。Tho―Radiaの「奇跡のクリーム」を含め、残った数少ないブランドは有効成分を一切含有しておらず、放射性とは名ばかりの商品になったのである。

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