植民地支配の歴史、アフリカでエリザベス女王の遺産に影
ナイジェリア・ラゴス(CNN) エリザベス女王2世が亡くなってすぐ、インターネットは人々の回想や反応であふれかえった。だが誰もが悲しみに暮れていたわけではない。アフリカの若者の中には、女王の長い在位期間中に、英国植民地史でも凄惨(せいさん)な時期を耐え忍んだ祖父母など高齢者の写真や物語をシェアしている者もいる。
「追悼する気にはなれない」。あるユーザーはこうツイートして、祖母の「通行証」の画像を投稿した。英国が東アフリカのケニアを統治していた時代、人々の自由な移動を禁じた植民地時代の書類だ。
植民地時代に「女たちが殴られ、夫と引き離されて1人で子どもを世話しなければならなかったという話」を祖母からよく聞かされたという投稿もあった。「彼女たちを決して忘れてはならない。彼女たちは私たちのヒーローだ」とも書かれていた。
こうした追悼拒否の姿勢から浮き彫りになるのは、女王のレガシー(遺産)の複雑さだ。大衆から広く親しまれているものの、かつて大英帝国が勢力を振るった場所では、女王は抑圧の象徴でもあった。
英連邦歴訪で王立西アフリカ辺境軍を閲兵するエリザベス女王=1956年2月2日、ナイジェリア・カドゥナ空港/Fox Photos/Hulton Archive/Getty Images
1895年以来英国の支配下にあったケニアは、1920年に正式に植民地とされ、63年に独立を勝ち取るまでその状態が続いた。英国統治時代の残虐行為がとくにひどかったのは、52年に勃発した「マウマウ団の乱」の時だ。ちょうど女王陛下が即位した年に当たる。
当時の植民地政府は15万人ものケニア人を収容所に収容し、去勢や性的暴力など残虐な拷問を実行した。高齢となったケニア人は2011年に損害賠償を求める裁判を起こし、最終的に英国の裁判所から1990万ポンド(現在の為替レートで約33億円)の賠償金を認められ、5000人の原告の間で分配された。
当時のウイリアム・ヘイグ英外相は、「英政府はケニア人が植民地政府の手によって、拷問やその他不当な扱いを受けていたことを認める。英政府はこうした行為が起き、独立に向けたケニアの前進が阻まれていたことを心より遺憾に思う」と発言した。
米国ケネソー州立大学でコミュニケーションを教えるファルーク・ペロギ教授は、アフリカにとって女王の記憶を植民地時代の過去と切り離すことはできないと語る。
「女王のレガシーは植民地主義の中で始まり、いまでもそれに包まれたままだ。かつて大英帝国は『太陽の沈まぬ国』と呼ばれた。女王の死で思いやりや同情心がかき立てられても、過去を拭い去ることはできない」(ペロギ教授)
ガーナ訪問中に同国のクワメ・エンクルマ大統領と歩くエリザベス女王=1961年11月/Keystone/Hulton Archive/Getty Images
「悲劇の時代」
ナイジェリアのムハンマド・ブハリ大統領がエリザベス女王の時代を「比類なく素晴らしいもの」と表現するなど、女王の死を悼むアフリカ諸国の指導者は多い。だが、そうではないアフリカ政界の著名人もいる。
南アフリカの野党「経済的解放の闘士(EEF)」の立場は明確だ。「我々はエリザベスの死を追悼しない。彼女の死は、我が国やアフリカの歴史の悲劇的な時代を思い起こさせるからだ」とEEFは声明を発表した。
さらに「我々と英国の関係性は痛み、死、奪取、アフリカ人への冒涜(ぼうとく)の一つであった」と声明は続いた。
エリザベス女王とフィリップ殿下がナイジェリア・イバダンの競馬場で開かれた集会に参加した生徒に手を振る=1956年2月15日/Fox Photos/Hulton Archive/Getty Images
ナイジェリア内戦での英国の関与を振り返る者もいた。この時、独立共和国を建国しようとしていたビアフラに対抗すべく、英国から政府側にひそかに武器が供給されていた。内紛で100万~300万人が命を落とし、英国人ミュージシャンのジョン・レノンは内戦に関与した英国への抗議として、大英帝国勲章を女王に返上した。
とはいえアフリカ大陸で多くの人が、女王は在位中アフリカにプラスの変化をもたらし、安定化を促した存在として記憶している。
ナイジェリアのアヨデル・モデュペ・オバエル氏はCNNにこう語った。「女王の在位中に大英帝国は終えんを迎え、アフリカ諸国は……共和国となった。この点について、女王は称賛やスタンディングオベーションを受けるに値しないが、正しい方向に進む一歩だった」
ナイジェリア首都アブジャを公式訪問したエリザベス女王。雑誌を出版するデレ・モモデュ氏が対面=2003年/From Dele Momodu
アフリカの雑誌オベーションを出版するデレ・モモデュ氏は03年に女王のナイジェリア訪問で謁見(えっけん)した時のことを振り返り、手放しで称賛した。同氏は独裁者サニ・アバチャが国を支配していた1995年にナイジェリアを逃れて渡英した。
「昔は難民だったが、今は雑誌の出版者をしていると女王に伝えると、女王は『がんばりましたね』と言って、列を進んでいった。女王には敬服する。女王は最後の最後まで働き、自分の国のために働くことに疲れを知らなかった。国のために最善を尽くした。指導者の鏡だ」(モモデュ氏)
女王は大英帝国による残忍行為の「償い」をしようと努めていたというのがモモデュ氏の考えだ。「彼女は独立の際にナイジェリアを訪問した。在位中には遺物のいくつかが返還された。英連邦が繁栄を続けているのはそれが理由だ。世界は偉大な人物を失い、非常に残念だ」
同じくナイジェリアのアデクンビ・ローランド氏もこう語る。「女王の訃報(ふほう)は、ひとつの時代の終わりを象徴している。女性としても女王の物語は興味深い。この女性は若くして王位に就き、品位と尊厳をたたえながら自らの力のすべてをふりしぼり、どんな犠牲を払ってでも愛する国と英連邦を守ろうとした」
英連邦の女王
かつて女王は「私は他の誰よりもアフリカを見てきたと思う」と公言した。
初めて南アフリカを公式訪問したのは王女時代の47年。その後120以上の国々を訪問することになるが、その多くがアフリカ諸国だった。
英連邦歴訪の最初にケニア・ナイロビに降り立ったエリザベス女王とフィリップ殿下=1952年/PA Images/Getty Images
自分が女王になったことを知ったのは52年のケニア訪問中だった。フィリップ王子と現地を訪問中に父親のジョージ6世が他界し、ただちに女王に即位した。
やがて植民地主義は崩壊し、英国の海外領土だった場所では独立や自治が認められ、かつての植民地は女王が国家君主を務める英連邦の一員となった。女王は長い年月をかけて、連邦の団結を維持しようとたゆまぬ努力を続けた。
アフリカの指導者たちとも強い絆(きずな)を築いた。そのうちの1人、ネルソン・マンデラ氏とは南アフリカで2度面会している。61年のガーナ訪問では、クワメ・エンクルマ大統領(当時)とダンスを一緒に踊る姿がカメラに収められたことで有名だ。
ガーナ訪問中にエンクルマ大統領とダンスを踊るエリザベス女王=1961年、首都アクラ/Universal Images Group/Getty Images
だが連邦からの独立や、奴隷制度といった英国の過去の罪に対する説明責任を求める声は日増しに高まっている。2021年11月、バルバドスは英国からの独立宣言から55年目にして、女王を君主とする国家君主制を廃止した。他にもジャマイカなどのカリブ諸国が同様の動きをする考えを示唆している。
今年3月にはウィリアム王子夫妻がジャマイカを訪問したが、滞在中に彼らが直面したのは抗議や賠償を求める嘆願だった。王室と奴隷制度との関わりに対し、公式謝罪を求める訴えもあった。
「70年間の在位期間中、あなた方の祖母は我々の祖先が受けた苦難を是正することも、償うこともしてこなかった。そうした苦難は女王の在位中に生じ、また英国がアフリカ人を人身売買し、奴隷化し、年季奉公させ、植民地化していた期間全体にわたって生じていた」と、抗議団体「アドボケーツ・ネットワーク・ジャマイカ」のメンバーは訴えた。
6月、チャールズ皇太子は英王室のメンバーで初めてルワンダを訪問し、女王の代理として英連邦首脳会議に出席した。
母親の死後、英連邦の君主となったチャールズ国王は、約3分の1がアフリカ諸国の連邦各国と新たな関係の構築に乗り出すことになるだろう。
チャールズ国王は母親のように組織を効果的にまとめられるだろうか。何よりも、英連邦のルーツが大英帝国にあることを考えると、その重要性はまだどれほどあるのだろうか。そうした疑問の声も上がっている。