紫禁城の中心に建つ北京故宮博物院には、5000年近くにわたる中国芸術が世界でもっとも多く収蔵されている。そして今、こうした秘蔵の品々の中から900点以上が、新設された香港故宮文化博物館に展示されている。香港が英国から中国に返還されて25年の節目に合わせた、中央政府からの「贈り物」だ。
収蔵品の中には、少なくとも現代の基準では政治色の濃いものは見当たらない。だが2016年、香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官が初めて博物館建設計画を発表した際には物議が起こった。計画の承認前に、市民に一切相談がなかったことが理由のひとつだ。
故宮博物院の180万強の収蔵品から長期貸し出しされる作品には、貴重な絵画や書画、磁器、翡翠(ひすい)などが含まれる。「あらゆる面で前代未聞だ」と、香港故宮文化博物館の陳智思(バーナード・チャン)主席は語った。
「これだけ大量の国宝が、他の文化施設に貸し出されるのは今回が初めてだ。大変な困難が伴うことは容易に想像できるだろう」と同氏は続け、輸送、警備、保険にまつわる難題を挙げた。保険に関しては、世界中からおよそ100社の保険会社が集結して問題解決にあたった。
博物館の入り口となる赤い扉/Hong Kong Palace Museum
パンデミックのさなかに展覧会を企画することも一苦労だった。香港ジョッキークラブの寄付による35億香港ドル(約4億5000万ドル、約608億円)で建設される博物館のオープンを、この週の返還記念日に間に合わせるために工期が前倒しされたからだ。
「米国でキュレーターをしていた時は、1つの展覧会に3年間かけていた。それが今では、3年間で9つの展覧会を準備している」。王伊悠(デイジー・ワン・イユー)副館長は、野心的な開館プログラムについて語った。
「国家一級文物」と称される166点の目を見張る文化遺産は、紫禁城の王宮生活を様々な角度から掘り下げる展覧会や、画期的なデザインや製法に注目する展覧会など、各種企画展で展示される。他にも馬に着想を得たアートをテーマにする展覧会では、パリのルーブル美術館から貸し出された作品と紫禁城の作品が並列に展示される。展示作品の中には、修復されたばかりの皇后の素描2点など、初めて一般公開されるものもある。
渦巻き模様を描いたガラスの花瓶。驚くほど現代的なデザインだが清王朝時代の作品だ/Peter Parks/AFP/Getty Images
王副館長の推測では、晋、唐、宋、元朝時代の中国絵画と書画を集めた巡回展が「大注目」を浴びることになるだろう。
「(こうした作品は)極めてデリケートで希少なため、香港で30日間展示した後は紫禁城の倉庫に戻して数年間休ませる」と副館長は説明した。
貸し出される作品のうち166点は国宝と目されている。12世紀に描かれた写真の水墨画もその一つ/The Palace Museum
香港のアート環境の変化
展示スペースは8万4000平方フィート(約7800平方メートル)。有名な紫禁城の建築を模した近代的なデザインの博物館が、完成までに要した時間はわずか5年。西九龍文化地区からビクトリア・ハーバーを見渡せるコンテンポラリービジュアルアート専門のM+ミュージアムなど、隣接する文化施設は建設に2倍近い時間がかかった。
9つあるギャラリーの1つは、中国の陶磁器の歴史に焦点を当てる/Hong Kong Palace Museum
埋立地の一画に広大な文化地区を建設する計画は2000年代初頭から進められていたが、香港故宮文化博物館は当初含まれていなかった。16年12月に林鄭氏が前触れもなく計画を発表した時、批判的な人々は中央政府に対する政治的便宜だとみなした(当時、林鄭氏は香港トップ2の職務に就いていた)。はたまた、中国政府が博物館計画に圧力をかけたと主張する者もいた。
林鄭氏は、計画が政治的理由で承認されたという主張を一蹴した。
「今日の社会がこうした不信感にあふれていることは承知している。だが今回の計画に関しては、決して個人的利益が動機ではない」と17年に述べている。「市民全員が誇りに思えるような、香港のための香港故宮文化博物館を建設したいと切に願っている」
とはいえ、建設計画は「自分も含め、全員が寝耳に水だった」と陳氏も振り返る。「誰も知らされていなかった。だが、表沙汰にされなかった理由は想像できる。こうしたことは非常にハイレベルな協議で行われるからだ」
清朝の皇帝、乾隆帝が祭祀で身に着けた式服/Peter Parks/AFP/Getty Images
中国政府がどの程度立ち回ったのかは知る由もないが、博物館は中国の習近平(シーチンピン)国家主席が抱く「中国の夢」「中華民族の偉大なる復興」という理念にも当てはまる。こうした理念では、中国経済の未来と国際社会での影響力は、過去の栄光と切っても切れないものと見られている。習氏も折に触れて、愛国精神や中国および「社会主義の中核をなす」価値観を広める上で、芸術家が大きな役割を担っていると口にしてきた。伝統的な中国文化は、習氏の頭の中では発想の源とみなされるべきであり、現代における文学・芸術面での革新がそこから生まれるはずなのだ。
17年、習主席は返還20周年を記念した3日間の香港訪問中に博物館の署名式に出席し、香港をきっかけに中国伝統文化や西側諸国との交流が促進されることを願うと述べた。
香港故宮文化博物館はビクトリア・ハーバーを見渡す西九龍文化地区にある/ROCCO Design Associates Architects Limited
だが、博物館がオープンした今の香港はがらりと変わった。中国政府のソフトパワー推進と時を同じくして、香港では言論の自由が奪われている。背景には大規模な民主化要求の抗議運動と、20年にそれを実質的に鎮圧した国家安全維持法の導入がある。
香港のアートシーンも脅威にさらされている。政治的ニュアンスを含む作品は明らかに検閲され、アーティストらは自主的に国外に亡命した。天安門広場の虐殺を扱った香港の著名な作品は撤去された。かつては中国国内で唯一弾圧犠牲者を自由に追悼できる場所だった、かの有名な「Pillar of Shame」もそのひとつだ。今年に入ってからも、1989年の民主化デモ運動の虐殺事件を暗にほのめかした作品「New Beijing」がM+ミュージアムの展示から除外された。もっとも、ミュージアム側は「作品の状態と保存の必要性」に伴う通常の展示交換の一環だと述べている。
共有される歴史
これだけの規模で収蔵品が貸し出されるのは初めてだが、紫禁城の宝物が展示されているのは香港故宮文化博物館だけではない。中国が分離領土とみなす台湾でも、台北の国立故宮博物院には最も貴重な部類の王宮の宝物が数多く収蔵されている。
60万点を超える紫禁城の文化遺産は、1940年代に国民党軍が台湾島に撤退した際に持ちこんだものだ。中国と台湾の緊張状態がかつてないほど最高潮を迎える今、博物館側は万が一有事が発生した場合に備えて、収蔵品を移動する訓練を計画している。
「いつの日か3館コラボレーションが実現できることを願っている。いずれも中国文明を紹介しているのだから」と陳氏も言い、香港の新博物館と宝物が政治を超越してほしいと期待を寄せた。
「中国文明の源泉はどこにあるのか? 中国文明と他の文明とはどうつながっているのか? 存在するのは我々だけではないのだ。二極化や分断が進むこの時代では、とくに重要だろう」
清の雍正帝の肖像画/The Palace Museum
一方で、香港市民にとって博物館は真夏の人気スポットだ。7月分の入場券10万枚はすでに完売。名高き収蔵品を間近で見られるチャンスを提供するだけでなく、地元の来場者に身近なストーリーを伝えることがミュージアムの役目だと王氏は言う。
「歴史家であろうと、タクシーの運転手であろうと関係ない。誰でもこうした素晴らしい宝物や、その物語に共感することができる。みな収蔵品に胸を揺さぶられるだろう」
博物館は、悪天候により当初の予定より1日遅れの7月3日に一般公開された。