XB70「バルキリー」、コンコルドよりも速かった超音速機

実験的な超音速機だったXB70「バルキリー」はコンコルドの5年前に空に飛び立った/NASA/Divds

2024.04.13 Sat posted at 20:30 JST

(CNN) 超音速機コンコルドの初飛行に先立つこと5年、もう一つの雄大な超音速機が空に飛び立った。あと少しでコンコルド以上の高速旅客機を生み出すところまで行った航空機だ。

この航空機の名は「XB70バルキリー」。米空軍向けに開発された実験機だ。今から60年前の1964年9月に実施された初飛行は、超音速機の黄金時代の幕開けを告げる契機になった。後にコンコルドの1.5倍近い時速3210キロ超を出したこともある。

オハイオ州デイトンに拠点を置く空軍資材コマンドの歴史家、トニー・ランディス氏は「XB70の全体的なデザインは美しいの一言に尽きる」と語る。「高速性と高高度運用能力を誇るこれほど魅力的な航空機が65年あまり前に開発されたとは、人工知能(AI)やコンピューターをベースとした今日の技術環境では理解しがたい」

XB70のプログラムに問題がなかったわけではない。軍用機としてはロールアウト前に既に時代遅れになっており、短い運用期間中には悲劇的な事故が影を落とした。通常の飛行であっても限界まで部品が酷使されたため、関係者全員が冷や汗をかいた。

ただ、XB70はそのデザインにより超音速飛行を象徴する機種になった。「米国立空軍博物館では今日に至るまで、厳かにたたずむバルキリーの前で足を止めて機体に見入り、サイズや形状に感嘆する人が絶えない」「大半の人から、これは新しいデザインなのかと聞かれる。一度も目にしたことがないようなデザインだからだ」(ランディス氏)

デッド・オン・アライバル


NASAは1960年代、XB70の量産試作機を高速飛行の研究に活用した/NASA

バルキリーはボーイングと、当時主要な航空メーカーだったノースアメリカン・アビエーションの競争から生まれた。最終的には57年、ノースアメリカンが米空軍から選出され、マッハ2で高度約18.2キロを飛行する核搭載可能な爆撃機の開発を任された。

だが、60年にソ連上空で発生した米軍U2偵察機の撃墜を受け、有人爆撃機から弾道ミサイルへのシフトが起きる。61年には、当時のケネディ大統領が開発予定の「XB70」について、敵防空網への侵入に成功する見込みは乏しいと判断。この結果、ノースアメリカンが開発に乗り出した矢先、プログラムの目標は高速飛行の研究に変わった。

バルキリーは機体尾部に搭載された6基のGE製ジェットエンジンで推進した

公募で「バルキリー」の愛称を与えられたXB70の1号機は64年5月11日、カリフォルニア州パームデールでロールアウトした。30メートルを超える翼幅、機体後部に搭載されたゼネラル・エレクトリック(GE)製のターボジェットエンジン6基、全長約56メートルの機体。どれを取っても、史上まれに見る印象的な航空機だった。

中でも特徴的だったのが翼端で、亜音速では水平状態に保たれていたものの、超音速飛行時には空気抵抗を減らすため折り曲げられた。三角形のデルタ翼や細長い胴体はコンコルドや、ソ連版コンコルド「ツポレフTu144」にも取り入れられた。Tu144はXBと同様、コックピットのすぐ後ろに2枚のカナード(小翼)も搭載し、低速時のパイロットの機体制御能力が向上した。

「1960年代を通じて、軍と民間セクターは超音速輸送機の開発に膨大なリソースを投じた」とランディス氏は指摘する。「当初は、ほぼすべての航空会社がXB70を基に初期設計を行った」

情報が増えるにつれ、こうした設計はコンコルドのように洗練度の高いデザインに変貌(へんぼう)を遂げた。ロッキードやボーイングが構想したコンコルドのライバル機のように、紙上の計画に終わったプロジェクトもある。

偽の窓

バルキリーを爆撃機として使用できないことが明確になると、設計チームは別の用途を考案した。「ノースアメリカンの技術者は創意工夫を凝らし、XB70の様々な用途を考えた」「しかし、真剣に検討されたバージョンはただ一つ、軍民両用の輸送機だけだった」

乗客158人を収容可能な密度の高い輸送機から、座席数を114隻に抑え客室中央部にラウンジエリアを設ける「デラックス」な配置まで、三つのバージョンが提案された。

「初代XB70が検査と改修のためパームデールに戻ったのを機に、ノースアメリカンは輸送機バージョンの宣伝を支援するため、機体の片側に偽の窓の模様を付け加えた。窓の模様は同機が飛行試験に戻る前に除去された」(ランディス氏)

こうした航空機の乗り心地がどのようなものになったのか、今となっては想像が難しい。ただランディス氏によると、コンコルドと共通点が多かったとみられる。「滑らかで静かな乗り心地で、シートの間にはたっぷりとしたスペースがあった。機体の運航費用や限られた座席数を考えると、中上流階級や富裕層しか手が出せない価格になった可能性が高い」

最も重要だったのはそのスピードで、実現していればロンドンとニューヨークをわずか2時間半で結んだとみられる。これに対し、コンコルドは通常3時間半かかった。

衝突直後のXB70バルキリーの様子

致命的な事故

XB70プログラムの命運をさらに縮めたのが、1966年にGE主催の撮影会で起きた死亡事故だ。当時現存していた2機のバルキリーのうち、より高度な2号機が小型機「F104N」と空中衝突。小型機のパイロットとXB70のパイロット1人が死亡した。他の搭乗者は重傷を負ったものの、一命を取り留めた。

大破したバルキリーの飛行回数はわずか46回で、残る1機も83回の飛行を経て退役した。飛行時間は160時間程度にとどまった。

最後の飛行が実施されたのは69年2月4日。現在カリフォルニア州アームストロング飛行研究センターとなっている場所から、オハイオ州のライト・パターソン空軍基地まで機体が運ばれ、そこで空軍博物館のコレクションに加わった。

プログラムの可能性がフルに発揮されたわけではないかもしれない。ただ、XB70のレガシー(遺産)は今なお残っていると、ランディス氏は語る。「あらゆる大型高速機の設計はXB70の調査から恩恵を受けている。こうした研究飛行から得られたデータは、将来の航空機設計に影響を与え続けるだろう」

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