再びイスラエル軍に住む場所を追われ――避難生活送る90代女性 ガザ地区

難民キャンプでCNNの取材に応じるスアド・アレムさん=ガザ地区/Mohammad Al Sawalhi/CNN

2023.11.04 Sat posted at 17:45 JST

イスラエル・アシュケロン(CNN) スアド・アレムさんはパレスチナの町、アルマジュダルを追われた約1万人の避難民の一人だ。1948年当時、アレムさんはまだ若い女性だった。第1次中東戦争のさなか、イスラエル軍は現在のアシュケロンの一画にあった町に迫ってきた。

アレムさんはいま90代。パレスチナ自治区ガザ地区で暮らしており、再び避難を強いられている。 

10月7日、イスラム組織ハマスはガザ地区からイスラエルにテロ攻撃を仕掛け、ロケット弾数千発を発射したほか、1400人を殺害、220人あまりを人質に取る蛮行を繰り広げた。これに対する報復として、イスラエル国防軍(IDF)はガザ地区内のハマスの目標に対する大規模爆撃を実施。ハマスの支配下にあるガザ保健当局がまとめ、ヨルダン川西岸ラマラのパレスチナ保健省が公表した情報によると、一連の攻撃で6850人を超えるパレスチナ人が死亡した。

アレムさんは今回の戦争に巻き込まれた数十万人の民間人のひとりだ。

「空と陸で毎日20回、死を目の当たりにしている。一回一回の爆発の衝撃ですら心理的にこたえる」。アレムさんはCNNの取材にそう語った。

ガザとの境界の北約16キロに位置する土地に、アルマジュダルの面影はほとんど残っていない。織物製造業で知られる賑(にぎ)やかな市場だったアルマジュダルは、1948~49年の戦争を経て瓦礫(がれき)と化した。

民家はすべて姿を消し、現在のアシュケロンを構成するイスラエルの近代建築に取って代わられた。今も残るのは古いモスク(イスラム教礼拝所)のみ。付近には草木の生い茂る空っぽの野原が広がり、往事の町の規模をしのばせる。

1948~49年の戦争後、約70万人のパレスチナ人が住む場所を追われるか、避難した。これは後にイスラエルとなる場所に住んでいたアラブ人の8割以上に当たる。ガザ地区に暮らす住民の半数以上はアレムさんと同じく、難民やその子孫だ。


1934年のアルマジュダルの様子/Sepia Times/Universal Images Group/Getty Images

パレスチナ人の町として栄えていてた当時の建物で残っているのは、この古いモスクのみだ/Ivana Kottasova/CNN

1948年に発生した避難民の多くは、数日か数週間で故郷に戻れるものと思っていた。だがイスラエルが帰還を許可することはなく、以来、多くの人が貧困状態で暮らしている。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によると、ガザ住民の8割以上は貧困状態にあるという。

パレスチナ人はこの出来事を、アラビア語で大災厄を意味する「ナクバ」と呼ぶ。

「私は1948年のナクバを経験した。2023年のいま、再びナクバを経験している」。アレムさんはガザ地区南部ハーンユーニスの難民キャンプに設置されたテントに座りながらそう答え、「二度目の方がつらい」と言い添えた。10日以上前に激しい爆撃のなか自宅を離れて以降、きちんとした食事は取れず、風呂にも入れていない。糖尿病を患っているアレムさんだが、定期的な食事や常用薬が手に入らず苦労しているという。

「顔や手、体を洗うのに使えるものは何もない。洗濯も何もできない。何もない。以前はトイレがあったが、今はもうない。トイレに行っても、使う人が多すぎて汚れている。行くのははやめた」(アレムさん)

アラブ人の村や町の大半が姿を消して久しいが、集合的な記憶はいまも生き続けている。

「パレスチナ人が記憶を受け継ぐ方法には驚かされる。ほとんどの場合、父親や祖父が物語を語って聞かせるという伝統的な手法だ」。こう語るのはゾクロットで働くパレスチナ人の教育者、ウマル・グバリ氏だ。

ゾクロットはテルアビブに拠点を置く非政府組織(NGO)で、もともとはイスラエルのユダヤ人によって結成された。もぬけの殻になったパレスチナの村に対する「認識と責任、説明責任を促し」、コミュニティーの帰還の権利を訴えるのが目的だ。

そうした取り組みの第一歩となるのが啓発だと、グバリ氏は語る。ゾクロットはヘブライ語で活動し、資料の公刊やツアーの企画、証言の収集を行っている。

ゾクロットの活動がイスラエルで主流の説明と食い違っていることは、グバリ氏も認める。イスラエルの説明は第1次中東戦争中に起きたパレスチナ人追放の問題を糊塗(こと)し、イスラエル建国で初めて砂漠に「花が開いた」との論争含みの見方を強調する傾向にある。

イスラエルと米欧などの同盟国は今年、ナクバ発生から75年を追悼する初の国連会合を欠席した。今年はイスラエル建国75周年でもある。

イスラエル政府はナクバの追悼を拒否しており、イスラエルのエルダン国連大使は追悼行事について、「イスラエルを悪役に仕立て、和解の機会をさらに遠ざける結果にしかならない」と指摘した。

グバリ氏によると、ゾクロットの使命の一つは、いかに不快であろうとイスラエル人に歴史認識を深めてもらうことにある。

タグフリッド・エビードさん(左)はガザ北部の自宅を退去するよう命じられ、ガザ南部に身を寄せている

退去以外に選択肢なし

ガザ住民の大半は今日でもパレスチナ難民を自認しており、祖先が避難を余儀なくされた町や村こそが故郷だと語る。とはいえ、ガザ地区での暮らしは今や数世代に及んでいる。

イスラエルは1967年、エジプトやヨルダン、シリアとの第3次中東戦争でガザ地区を占領し、40年近く占領を続けた末、2005年に部隊や入植者を撤退させた。その2年後にハマスが域内で実権を握ると、海上ルートを含む出入り口を支配するイスラエルとエジプトはガザ地区を封鎖。ガザ地区は「世界最大の天井のない監獄」と批判される場所に変ぼうした。

タグフリッド・エビードさんは35歳という若さだが、やはりアルマジュダルに強い帰属意識を感じている。

「私たち一族は1948年にガザに避難した」とエビードさん。祖先がアルマジュダルを逃れた理由を疑問に思いながら育ち、なぜ家を離れてしまったのか、なぜそんな事態を許したのかと自分に問いかける日々が続いた。

「かつての私は、二度とそんなことはしないと言っていた。もう同じことは繰り返さない。家族や祖父のように逃れることはあり得ない、と」(エビードさん)

そこへ、イスラエル国防軍が避難を命じるビラを空から投下し始めた。空軍が作戦を強化する間、南部へ退去するよう促す内容だった。絶え間ない空爆にさらされたエビードさんは、ガザ市を離れる以外に選択肢はないと決意した。

7人の家族は徒歩で避難し、ガザ市の約32キロ南に位置するハンユニスにたどり着いた。

「困難なことばかりだった。どこもかしこも砲撃されていた」とエビードさん。「ハンユニスに来たものの、ここには何もない。初日は砂ぼこりにまみれて眠った。毛布もなかった。1週間が過ぎ、息子は体調を崩した。帰りたい。苦しみはたくさん味わった。耐えきれない」

祖先が家を逃れた理由が今ようやく分かったと、エビードさんは語る。

「子どもたちへの心配、それに破壊と死の恐怖が(私たちを)追いやった。子どもたちにとって、今回のことは歴史の一部にはならない。子どもたちは自らそれを体験し、その目で目の当たりにしているのだから」

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