米歌手ハリー・ベラフォンテさん死去 社会活動に貢献、反権力の姿勢貫く

米俳優で歌手のハリー・ベラフォンテさん=1956年頃/Archive Photos/Getty Images

2023.04.26 Wed posted at 13:13 JST

(CNN) 歌手や俳優として活躍し、社会活動家として公民権運動などを支援したハリー・ベラフォンテさんが25日、鬱血(うっけつ)性心不全のため死去した。96歳だった。広報担当者が明らかにした。

ベラフォンテさんは1956年に「バナナ・ボート(デーオ)」をヒットさせ、「カリプソの王」と呼ばれるようになった。ブロードウェイのミュージカルを映画化した「カルメン」に出演して映画スターにもなった。

しかし最も大きく貢献したのはステージ外の活動だった。ベラフォンテさんは公民権運動の中心となって戦略の立案や資金調達、橋渡し役を担った。そうした活動のためにエンターテインメント界のキャリアは常にリスクにさらされ、命を失いそうになったこともある。

親交のあった公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師は、ニューヨークにあるベラフォンテさんの豪邸に滞在し、戦略について語り合ったり、重圧から逃れたりしていた。


マーティン・ルーサー・キング牧師(中央)と並ぶベラフォンテさん(左隣)=1965年3月24日、米アラバマ州/AP

不正を強く憎んだベラフォンテさんの政治意識は、家政婦として働いた貧しいジャマイカ系の母をもつ息子として育った経験から形成された。

南アフリカでは反アパルトヘイト(人種隔離)運動を率いてネルソン・マンデラ氏と親交を結び、HIV・エイズ対策運動を支援してユニセフの親善大使になった。アフリカの飢餓撲滅を訴えた85年のヒット曲「ウィー・アー・ザ・ワールド」のアイデアを思いついたのもベラフォンテさんだった。この曲にはボブ・ディランさん、マイケル・ジャクソンさん、ブルース・スプリングスティーンさんなどのスターが結集した。

小学校で生徒たちに演説するハリー・ベラフォンテさん=2004年、ケニア首都ナイロビ近郊

富や名声が増しても痛烈な姿勢は揺るがなかった。米国のイラク侵攻を理由に当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領を「世界で最も偉大なテロリスト」と呼んで批判の的になり、ジェイ・Zやビヨンセなどの黒人セレブが社会正義のために立ち上がらないという理由で非難した。

オバマ元大統領が2008年に初めて大統領選に出馬した時には、オバマ氏から「いつになったら私に手加減してくれるのか」と尋ねられ、「これまでもそうしてきたつもりだけど」と言い返した。

ベラフォンテさんは1927年3月1日、ニューヨーク市で貧しいカリブ系移民の家庭に生まれた。父はベラフォンテさんが幼い頃に家族を捨て、ベラフォンテさんは母の出身国のジャマイカで少年時代を過ごしたこともある。かつて英国の植民地だったジャマイカでは、白人の植民地政府のジャマイカ人に対する不当な扱いを目の当たりにした。40年までにはニューヨークに戻ってハーレム地区で母親と暮らし、母親は貧困に苦しみながら一家を支えた。

ハイスクールを中退したベラフォンテさんは44年、米海軍に入隊。エンターテインメント業界に足を踏み入れたのは、ほとんど偶然だった。ニューヨークで清掃員の仕事をしていた時に、アメリカン・ニグロ・シアターの演劇を見て感銘を受け、俳優になろうと決意する。

演技を学ぶ傍ら、ナイトクラブで歌手としても活動するようになり、49年にレコーディング契約を獲得した。

生まれながらのカリスマ性は、舞台上でもマイクの前でも発揮された。ブロードウェイの演技が評価されてトニー賞を受賞したのに続き、59年のバラエティー番組でアフリカ系米国人として初のエミー賞を受賞した。

米歌手ハリー・ベラフォンテさん死去 96歳

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