韓国・ソウル(CNN) 「黒猫中隊」でU2に搭乗していた華氏によると、台湾軍と米国側の代表者は中国上空を偵察飛行する作戦に「カミソリ」の暗号名を付けた。
偵察飛行で得られた情報は「素晴らしい」もので、台湾政府と米政府の間で共有されたと、華氏は説明する。
「一連の任務では、それまで航空写真がほとんど撮影されたことがなかった広大な中国内陸部が対象になった。任務のたびに幅約160キロ、長さ約3200キロの範囲を捉えた航空写真地図を持ち帰った。そこには目標の正確な位置のみならず、地上の活動まで写っていた」
U2に搭載された他のセンサーにより、中国のレーダー能力などに関する情報も収集した。
台湾国防部(国防省)によると、1962年1月~74年5月、黒猫中隊は220回の偵察飛行任務を実施。中国本土約30省の1000万平方キロを超える面積をカバーしたとされる。
黒猫中隊についてさらなるコメントを求めたところ、台湾国防部はCNNに公開資料に当たるよう要請した。
「黒猫は夜に出歩くが、U2も通常、暗闇の中を出撃した。U2のカメラは目に当たる。機体は隠密性が高く、静かで、捕捉が難しかった。そこでこの二つの話を組み合わせ、『黒猫中隊』と呼ばれるようになった」。作家のポーコック氏はドキュメンタリーの中でこう語っている。
黒猫中隊には独自の記章まであった。地元にあるパイロット行きつけの施設に着想を得て、隊員の一人だった陳懷生中校が描いたものとされる。
しかし、2年前に旧ソ連によって撃墜されたパワーズ氏の父親と同様、黒猫中隊はやがてU2が対空攻撃に対して無敵ではないことを思い知る。
62年9月9日、陳氏はU2の操縦士として初めて人民解放軍の対空ミサイルで撃墜された。同氏の搭乗機は中国・南昌市上空で任務遂行中に撃墜された。
中国上空で撃墜
その後、人民解放軍はU2への対抗方法を編み出し、黒猫中隊に所属するU2パイロットがさらに3人、中国上空の任務で撃墜されることになった。
「本土の中国人は黒猫中隊がどこに向かって飛んでいるのか、目標は何なのかをレーダーで把握していた。中国はミサイル施設の建設に着手しつつも、それを各地に動かす対策を取った」(ポーコック氏)
「彼らは施設を建設して、しばらくはその場所にとどまるものの、次の偵察機が飛来すると見ると、ミサイルを移動させた。猫とネズミの追いかけごっこ、文字通り黒猫とネズミの追いかけごっこだった。台湾から定期的に飛来する偵察機と、次にどこに向かうかを察知した中国本土の防空部隊の間でいたちごっこが続いた」
64年7月には中国の澄海上空で、李南屏中校の乗るU2が人民解放軍のSA2ミサイルによって撃墜された。台湾国防部によると、李氏はフィリピンにある米海軍航空基地から出撃し、中国から北ベトナムへの補給路について情報入手を試みていたという。
67年9月には中国・嘉興上空で、人民解放軍のミサイルが黃榮北上尉の操るU2に直撃。69年5月には、河北省沿岸部を偵察中、張燮少校が黄海上空で制御不能になった。台湾国防部によると、このU2の残骸は見つかっていない。
中国共産党によって拘束
この他にも台湾のU2操縦士2人が撃墜されたものの、一命を取り留め、中国共産党に長年拘束されることになった。
63年11月には、葉常棣少校が江西省九江の上空で撃ち落とされた。
2016年に亡くなった葉氏は台湾国防部が出版した黒猫中隊の口述史で、「ミサイルの爆発で左翼の一部が失われ、機体は制御不能になった。機体はらせん状に落下した。多数の破片が機体に飛び込み、私の両脚に直撃した」と振り返っている。
拘束後、中国人の医師が破片59個を摘出したものの、すべての破片を除去することはできなかった。
「日常生活にはそれほど影響なかったが、冬の間は脚が痛み、動作に支障が出た。このことは一生忘れないだろう」(葉氏)
65年には内モンゴル上空で張立義少校の乗るU2がミサイルの直撃を受けた。張氏も破片数十個によるけがを負い、緊急脱出して雪景色の上に着陸した。
「当時は暗く、どのみち助けを求めることはできなかったため、パラシュートをしっかり体に巻いて暖を取った。10時間後に夜が明けると、移動式テントでできた村が遠くに見えたので、そこまで足を引きずっていき、助けを求めた。ベッドにたどり着いた瞬間、私は崩れ落ちた」。張氏は口述史の中でこう振り返っている。
葉氏も張氏も死亡したとみなされ、その後数十年間、台湾の地を再び見ることはなかった。最終的には82年、当時英国の植民地だった香港で解放された。
だが、世界はその間に大きく変わっていた。米国はもう台湾と相互防衛条約を結んでおらず、台湾ではなく中国を国家として承認する方針に正式に切り替えていた。
冷戦時代のような米国と台湾の同盟はもう存在しなかったが、米中央情報局(CIA)はパイロット2人を米国に移送し、90年に台湾帰還が許されるまで米国で暮らせるよう便宜を図った。
後悔なし
実は2人の解放時には、CIAがU2プログラムを管理する時代はとうに過ぎ去っていた。米空軍史の記述によると、CIAは74年にU2を米空軍に移管したとされる。
その2年後、空軍の第99戦略偵察飛行隊と同隊のU2は、韓国の烏山空軍基地に配置替えに。指揮官のデービッド・ヤング中佐はこの場所に「黒猫」の愛称を付けた。
現在、この部隊は第5偵察飛行隊の名称で知られている。
だが、米国のU2は今なお「いたちごっこ」を続けており、今もその活動が中国で反発を招くことがある。中国政府は2020年、米国がU2を飛行禁止区域に送り込み、その下で行われている実弾演習への「侵入」を図ったと非難した。
米太平洋空軍は当時のCNNの取材に、飛行を実施したことを認めたものの、規則違反は一切なかったと説明した。
元祖黒猫中隊に関わった隊員の間では、後悔の念はほとんどない。その点は拘束された隊員であっても同様だ。
葉氏はドキュメンタリーの製作陣に、高度7万フィート(約21キロ)の世界を懐かしく思い出すと語った。
「我々は文字通り上空にいた。目にする景色も違っていて、鳥の目から俯瞰(ふかん)しているようだった。あたり一面に広大な景色が広がっていた」
張氏も苦い思いは抱いていない。
「私は空を飛ぶことを愛している」「命が助かったのだから、後悔はない」