ブラジル・サンパウロ(CNN) サッカー・ワールドカップ(W杯)でブラジルを3度の優勝に導いた世界のサッカー界のレジェンド、ペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)さんが29日、死去した。82歳だった。入院先の病院によると、死因は結腸がんの進行に伴う多臓器不全だった。
娘のケリー・ナシメントさんは、家族がペレさんの手を握る写真をインスタグラムに投稿し、「永遠に愛しています。安らかに眠ってください」と記した。
ぺレさんは11月下旬、呼吸器感染症と結腸がんに関連した合併症のため、サンパウロ市内の病院に入院。病院は先週、がんが進行して健康状態が悪化していることを明らかにした。
「ペレ」という名は60年以上もの間、サッカーそのものだった。W杯には4回出場し、3度の優勝を果たした史上唯一の選手だった。
ペレさんの一般公開の弔問は1月2日にサンパウロ州にあるかつての所属チーム、サントスの本拠地ビラ・ベルミロで営まれる。
ペレさんは1940年、リオデジャネイロ北西の内陸の町で生まれ、その後一家でサンパウロに転居した。
ペレというニックネームの由来は、本人でさえもはっきりしない。かつて英紙ガーディアンへの寄稿で、学校の同級生が自分をからかい、ビレという別の選手のニックネームをもじってつけたのが始まりだったようだと説明していた。
少年時代は靴下と布切れを丸めたボールを裸足で蹴っていた。「父は優れたサッカー選手だった。たくさんのゴールを決めた」。ペレさんは2015年、CNNのインタビューにそう語っている。「私は父のようになりたかった」
10代で自宅を離れたペレさんは、サントスの練習に参加するようになり、16歳の誕生日を前に初のゴールを決めた。同チームでは638試合に出場し、619得点をマークした。
世界が初めてペレさんの目覚ましい活躍を目の当たりにしたのは1958年、17歳でW杯にデビューした時だった。ペレさんは準々決勝のウェールズ戦でブラジル唯一のゴールを決め、準決勝のフランス戦ではハットトリックを、開催国スウェーデンと対戦した決勝では2得点をマークした。
次のW杯優勝は1962年だった。ただ、ペレさんはけがのため、大会の後半は欠場した。66年の大会もけがに阻まれ、ブラジルは1次リーグで敗退した。
その屈辱を晴らしたのが70年だった。イタリアに4対1で勝利した決勝戦。ブラジルはW杯史上、最も有名なゴールを決めた。10人のうち9人がピッチを駆け抜けてペレさんがパスを繰り出し、カルロス・アルベルトがゴールに叩き込んだ。まさに、ブラジル人がよく言う「ジョゴ・ボニート(美しいゲーム)」そのものだった。
70年のW杯を前に引退を考えたというペレさんも、この決勝戦で同大会4度目となるゴールを決めた。
ペレさんのW杯のキャリアはこれで終わったが、75年には年棒167万ドルの契約を結んで米ニューヨーク・コスモスに入団している。
ペレさんの貢献でコスモスは77年、北米サッカーリーグ優勝を果たし、ペレさんはその後、サッカーを正式に引退した。
その後もブラジルで貧しい人たちのために声を上げ、ユニセフの親善大使を長年務めて平和と弱い立場にある子どもたちの支援を訴えた。
「いつか死んだとしても私は幸せだ。最善を尽くそうとしてきたから」「スポーツのおかげでそれができたのは、それが世界最大のスポーツだからだ」。ペレさんはオンライン誌「トークス」にそう語っていた。
「サッカーの王様」ペレさんが死去、その生涯を振り返る