パンナム:世界の空の旅を変えた国際航空のパイオニア

パンアメリカン航空(パンナム)は国際航空のパイオニアとして知られ、一時代を築いた/Ivan Dmitri/Michael Ochs Archives/Getty Images

2021.12.30 Thu posted at 13:40 JST

(CNN) 旅行業界アナリストで米サンフランシスコに拠点を置くアトモスフィア・リサーチ・グループの創業者でもあるヘンリー・ハーテフェルト氏は、毎週金曜日の夜、年代物の航空会社のカクテルグラスにカクテルを注ぎ、かつて存在した航空会社を懐かしみながらツイッター上で乾杯する。

12月上旬、ハーテフェルト氏が豊富なグラスコレクションの中から選ぶのは、パンアメリカン航空(パンナム)の象徴的な青い地球のロゴが描かれたグラスだ。

パンナムは今から30年前の1991年12月4日の最終便をもって、約65年の歴史に幕を下ろした。パンナムの破産宣告から30年の月日が流れたが、同社のブランドは今でも大衆文化に影響を与え続けているようだ。

スウィングする60年代

パンナムは、米国初の旅客機ボーイング707のローンチカスタマーだった。そして1958年10月、ニューヨーク発パリ行きの同社初の707旅客機が「ジェット旅客機時代」の到来を告げた。

当時、最高級の服で身を包んだ有名人やスター、裕福な旅行者たちが、パンナム機での空の旅を終え、タラップを降りる姿をよく写真に撮られた。

64年にビートルズが米国のテレビに初出演するためにニューヨークに降り立った時、彼らが降りてきたのは「クリッパー・ディファイアンス」と呼ばれるパンナムの707型機だった。

当時は「ブリティッシュ・インベイジョン(英国の侵略)」と呼ばれるほど英国文化が米国を席巻していた。ビートルズもその一環として英国海外航空(BOAC)のジェット機に乗っていてもおかしくなかった、あるいは乗るべきだったのかもしれないが、彼らはパンナム機を選んだ。

ハーテフェルト氏は「恐らくビートルズはあえてパンナム機を選んだ。彼らは、米国を訪問する時は米国の航空会社の旅客機から降りてくる姿を見せたかったのだろう」と言う。

強力なブランド

パンナムは、人気スパイ映画「007」シリーズの第1作「ドクター・ノオ」(1962年)やSF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」(1968年)など、数々の映画にも登場した。

受賞歴のある広告関係者で、マーケティングに関するカナダのラジオ番組・ポッドキャストの司会も務めるテリー・オライリー氏は次のように語る。

「自分の番組でパンナムを取り上げてきたが、私は、パンナムが残した同社のブランドに魅力を感じる。パンナムには他の航空会社にはない華やかさがあった。だからこそ、同社の人気がこれほど長く続いているのだろう」(オライリー氏)

米国へ向かうため機内に乗り込むビートルズのメンバー=1964年2月13日、英ロンドン

90年代後半に少々変わった出来事があった。米国のある鉄道会社がパンナムブランドの使用権を購入したのだ。この鉄道会社は2006年に「パンナム鉄道」という社名で米国北東部の州で事業を開始し、ロイヤルブルーの同社の車両にはパンナムの社名とロゴが付された。

パンナムブランドの使用権は現在、パンアメリカン航空ライセンシング・プログラムが保有し、パートナー企業と連携して新たなパンナム製品を開発している。

オライリー氏は「企業が消滅した後もライセンス資産として復活できるブランドは非常に限られており、パンナムほど影響力が持続するブランドはほとんど存在しない。華やかなイメージのあるパンナムだからこそそれが可能になった。そしてパンナムは、自社のロゴのライセンス供与で稼げることも分かっていた」と言う。

世界的アイコン

パンナムは1927年に事業を開始し、最初はフロリダ州キーウェストとキューバのハバナを結ぶ旅客便と航空郵便から始めた。

民間航空の先駆者ファン・トリップの指揮の下、パンナムはボーイング314をはじめとする「クリッパー」と呼ばれる数多くの旅客輸送用飛行艇で急成長を遂げた。

第2次世界大戦中も事業を継続し、世界中で米政府の後方支援を行った。

戦後は、米民間航空委員会(CAB)が米国の航空業界を厳しく規制し、航空路の割り当てや航空運賃の管理・監督を行った。

ハーテフェルト氏によると、トリップはパンナムの国際的成長に注力し、「悪魔と取引をした」という。トリップはCABとの取引に応じ、パンナムが「米国政府のお墨付きの国際線」となる代わりに、米国内線は追求しないことに合意した。

この取引が、数年後にあだとなって返ってくるのだが、パンナムは50年代に外国での航空インフラ構築の腕を磨き、自社のためだけでなく、他の航空会社にも技術的な専門知識を提供した。

パンナム歴史財団のダグ・ミラー氏は「パンナムは洞察力と能力を兼ね備えていたが、米政府とも決して表ざたにならない方法で緊密に協力していた」と指摘する。

パンナムは1947年に初めての世界一周路線を開始した

ミラー氏は「当時、国際市場で事業を展開していた米国企業は他にもあったが、パンナムほど外国での物事の進め方を見出す能力に長けた企業はほとんど存在しなかった」と述べ、さらに次のように続けた。

「当時、外国でビジネスを行うなら米国大使館に連絡した後、まずパンナムの支社長に会うべきだとよく言われた。それだけパンナムは現地の事情に精通していた」(ミラー氏)

そして60年代もパンナムは技術革新で航空業界の先頭に立った。その最たる例がコンピューターを使った飛行機・ホテル予約システム「PANAMAC」だ。

60年代は航空業界で超音速旅客機(SST)を求める動きが加速した。パンナムもその流れに乗り、英仏共同開発のコンコルドとボーイング2707に興味を示した。しかし、2707は開発計画が中止となり、コンコルドも飛行が大洋上のみに制限されたり、世間の評判が悪かったりしたことから、結局、パンナムはSSTの導入を見送った。

終わりの始まり

しかし、ファン・トリップは大型旅客機のボーイング747に可能性を見いだした。パンナムは747のローンチカスタマーとなり、70年に世界で初めて747を導入した。

ハーテフェルト氏は「パンナムは747を25機発注したが、後に25機は多すぎたことが判明した。パンナムが悪かったのではない。70年代初頭にオイルショックや不況など、悪いことが重なったのだ。しかしパンナムはそれらの飛行機の納入を遅らせるための十分な措置を講じなかった」と指摘する。

航空史家たちは、70年代後半の米航空業界の規制緩和がパンナムの運命を変えた重要な転換点だったと指摘するかもしれない。規制緩和により、競合他社はパンナムと同じ国際線を飛ばせるようになった一方、国内線をほとんど持たなかったパンナムは大型旅客機を米国内で飛ばせず、他社と競争できなかった。

パンナムは、ナショナル航空の買収後も有意義な国内線網を構築できず、買収はパンナムを待ち受ける避けられない結末を先送りしたにすぎなかった。そして追い打ちをかけるように、88年にスコットランドのロッカビー上空で起きたパンアメリカン航空103便爆破事件がパンナムへの信頼を揺るがした。

ハーテフェルト氏は「パンナムは航空業界の変化に対応すべき時に進化できなかった。実際、パンナムは80年代半ば以降、その華やかさを失った。パンナムは過去の自分から脱却しなかった、あるいはできなかった。そして急速に変化する環境にどう対応していいか分からなかった」と振り返る。

ハーテフェルト氏は30年前に飛んだパンナム最後の便をたたえ、オールド・ファッションドか、マンハッタンか、あるいはマルティーニで満たしたパンナム・グローブのロゴ入りのグラスを掲げる。

「パンナムが残した遺産は不滅だ。パンナムのような一流の航空会社に捧げるカクテルは一流でなくてはいけない」(ハーテフェルト氏)

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