ロベルト・バルティーニ、世界で最も謎めいた航空機設計者<上>

バルティーニが設計した異形の巨大機「バルティーニ・ベリエフVVA14」/Sam Rollinson/Alamy

2021.06.19 Sat posted at 17:00 JST

(CNN) 彼の生涯は謎に包まれており、真の名前すら定かではない。だが、航空界への貢献は明らかだ。ロベルト・オロス・ディ・バルティーニ(墓石にはこの名が刻まれている)は時代に先んじた天才であり、死後50年近く経過した今なお、彼の手になる航空機や飛行艇は異彩を放っている。

バルティーニは7カ国語を話した現代の碩学(せきがく)で、天文学者にして哲学者、物理学者、画家、音楽家でもあった。

若い頃はオーストリア・ハンガリー帝国とイタリアで過ごしたが、航空機設計者として足跡を残したのは旧ソ連でのことだ。アンドレイ・ツポレフ、パベル・スホーイ、オレグ・アントノフといった航空史上の伝説的な面々と活躍の舞台を共にした。

「バルティーニは革新者として、これらの人物をしのぐほどではないにせよ、同等の水準にあった」「しかしロシア人でなかったために、同様の成功を挙げることはできなかった」。伝記「ロベルト・バルティーニの生涯と設計機」を著したジュゼッペ・チャンパリア氏はこう語る。

バルティーニは60機以上の航空機を設計したが、そのうち空を飛んだのは4機のみ。どれも試作機に過ぎなかった。世界記録を塗り替え、多くの優れた機体の設計に影響を与えたバルティーニだったが、称賛を受けることはほとんどなかった。

それどころか、スパイ容疑で10年近くソ連の刑務所に収容されていたこともある。

バルティーニは時代の先を行った天才とみられている

若い頃の情熱

チャンパリア氏によると、バルティーニの経歴はロシアに住む娘にも分かっておらず、若い頃の詳細に関して公式記録の裏付けはない。

ただ、オーストリア・ハンガリー帝国の小さな町、カニジャで生まれた点については一定の見解の一致がみられる。バルティーニは当時17歳だった地元貴族の女性と、近隣の町フィウメの男爵との間に非嫡出子(ひちゃくしゅつし)として生まれたようだ。カニジャは現在のセルビアのハンガリー国境近く、フィウメは現在のクロアチア領リエカに位置する。

チャンパリア氏によると、悲劇的なことに、母親の女性は自殺した。スキャンダル隠しを図った家族が子どもを里子に出した後のことだった。3年後、ルドビコ・オロス・バルティーニ男爵は息子を実子と認め、その後は自分の子どもとして妻と一緒に育てた。

バルティーニは15歳のとき、ロシア人操縦士の乗る最初期の量産機「ブレリオXI」が参加した航空ショーを見学する。これがきっかけとなり、若きロベルトの中で航空機への情熱が芽生えたようだ。しかし、探求に残された時間は少なかった。1916年、彼はオーストリア・ハンガリー軍に徴兵され、ロシア帝国と戦うため第1次世界大戦の東部戦線に派遣された。

赤い男爵


バルティーニはロシア人パイロットが「ブレリオXI」を操るのを見て、15歳で航空機に魅了された/Philippe Huguen/AFP/Getty Images

バルティーニはすぐに身柄を拘束され、戦争捕虜としてシベリアの収容所に送られることになる。そこで共産党の文献に親しむようになり、終戦までの時を過ごした。釈放後は帰国の資金が足りず、上海でタクシードライバーを務めたこともある。やがてフィウメに戻ると、同地はオーストリア・ハンガリー帝国崩壊後の政治的混乱のただ中にあった。

学問を修めたいとの期待を胸に、バルティーニはイタリアに移住し、ミラノ工科大航空工学科やローマ近郊の飛行学校に通った。当時の彼はすでに完璧なイタリア語を話していたが、これはフィウメの住民には珍しいことではなかった。

21年には、「ロベルト・オロスディ」の名前で結党間もないイタリア共産党に加入。堪能な語学力や兵器の知識、貴族の地位を生かして有望な諜報(ちょうほう)員となった。党内でのあだ名は、貴族の出自と共産主義の赤にちなみ「赤い男爵」だった。

しかし、ムッソリーニが22年後半にクーデターで権力を奪取すると、バルティーニは警察に追われるようになる。身柄拘束を避けるため、党はバルティーニを航空エンジニアとしてソ連に派遣。彼の才覚と航空分野でのイタリアの知見(当時は世界最高水準だった)を社会主義の祖国にささげた形となった。

バルティーニは「地面効果」を利用しエクラノプランの開発に取り組み、「カスピ海の怪物」と呼ばれる機体を生み出した

初の試作機

バルティーニはソ連で再び名前を変え、父の名「ルドビコ」とスラブ系の名付けの習慣を踏まえて「ロベルト・ルドビコビッチ・バルティーニ」を名乗った。最初は実験的な水陸両用機の開発に取り組み、雇用先の組織を批判して解雇された後、赤軍の調査部門に雇われた。

表向きバルティーニの仕事は旅客機の設計だったが、実際には単葉戦闘機「スターリ6」の開発に従事した。試作機1機が製造された同機は、バルティーニのプロジェクトで実機製作にこぎ着けた初の機体となった。

スターリ6はステンレス鋼の機体と格納可能な単一の前輪を備え、航空機材料が木と布だった当時にあっては、さながら未来から来た航空機のような外観だった。スピード重視の設計で、飛行速度は約420キロに達した。

スロベニア・マリボル大学のセルゲイ・テザク教授は「1933年当時、ソ連での最高速度の記録は約270キロだった。従って、ソ連の最高の戦闘機を160キロ近く上回っていたことになる」と解説する。

こうした記録にもかかわらず、同機が生産段階に入ることはなかった。バルティーニは35年には兵装を備えた改良機を設計したものの、蒸発冷却システムなど未実証の技術のぜい弱性が懸念され、お蔵入りとなった。

「ロベルト・バルティーニ、世界で最も謎めいた航空機設計者<下>」は6月26日に公開予定

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