色あせるチャイニーズ・ドリーム<1> 中国を離れるアフリカ出身者

登封は広州市でビジネスをするアフリカ出身者や中国人が集まる場所だった

2016.08.26 Fri posted at 17:30 JST

(CNN) 中国南部の広東省広州市に「リトルアフリカ」と呼ばれる地域がある。「チョコレートシティー」とも呼ばれ、アフリカからの移民が集まっていた。だが近年、「チャイニーズ・ドリーム」を諦め中国を離れるアフリカ出身者が増加している。

広州の小北路ではつい2年前まで、買い物袋を頭に乗せて運ぶアンゴラ人女性や、長いローブに身を包みながら両替商を営むソマリア人男性、通りに面したレストランでヒツジをさばくウイグルからの飲食業者など、中国の他の地域とは異質な光景が広がっていた。

広州中心部にある登封には、中国内陸部だけでなくアフリカからも移民が殺到。サハラ砂漠以南から広州に移住してきたアフリカ出身者は2012年までに10万人に達したとの調査もある。この数字が本当なら、アジア最大級のアフリカ出身者によるコミュニティーだったということになる。いずれも中国で成功する夢を追いかけてきた人々だが、この夢は現在、色あせつつある。

研究者らは、この約18カ月で数百人から数千人のアフリカ出身者が広州を去ったとみている。広州の競争力が薄れた背景には、経済を石油に依存する西アフリカ諸国でドルが枯渇していることや、中国の厳しい移民政策、人種差別のまん延がある。中国経済の減速と成熟も要因のひとつだ。

広州は約束の地?

広州は香港の北西120キロの地点に位置する工業都市。アフリカ出身者の流入が始まったのは1990年代半ばだ。

新疆ウイグル自治区から来たカップル

中国政府は、初めて「中国・アフリカ協力フォーラム(FOCAC)」が開催された2000年を境に、アフリカの資源国と良好な関係を築く戦略を展開。2014年までに中国は米国を抜いてアフリカにとって最大の貿易相手国となり、100万人以上の中国人がアフリカ大陸に渡航した。

ナイジェリアやギニアにチャイナタウンが出現するなか、中国を視野に入れるアフリカの人々も増えていった。

ただ香港大学の講師ロベルト・カスティロ氏によれば、中国への移民は西洋に向かったアフリカ出身者とは異なる。西洋に向かった人々はアフリカで成功の機会に恵まれず、西洋諸国への定住を目指した。

一方、中国のアフリカ出身者は企業家精神に富み、さまざまな場所を巡り新天地での機会を模索する資金力を持っているという。中国に向かったアフリカ移民の40%は高等教育を受けていたとの調査もある。

アフリカの人々を相手に中国人が経営する店が集まり卸売りをしていたショッピングモール

広州の物流業界で働くソマリア人のアリ・モハメド・アリさんは大卒だ。「きょうだい5人はみな欧州に行ったが、結局タクシーの運転手や警備員になった」と述べる。自身は東洋に向かうことで機会が広がったという。

ギニア出身のマディナ・ディアロさんはマットレスやポップコーン製造機などあらゆる製品をコンテナで輸出し、母国で販売するビジネスを展開。2002年には37万5000ドルの年収があった。ギニアの1人当たりの国民総所得は470ドルだ。

模造品もお金になった。こう指摘するのは、かつてセネガル空軍で航空機エンジニアを務めていたムスタファ・ディエンさんだ。セネガルでは一時、中国で買い付けたアディダスやナイキの模造品を正規品と同じ値段で売れることができた。中国製の模造品だとは誰も気づかなかったという。

広州は約束の地となり、移住してくるアフリカ人はさらに増えた。

次回「色あせるチャイニーズ・ドリーム<2> 『競争力』失う中国」は8月27日公開

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