文化大革命から50年 中国を永遠に変えた革命の功罪

2016.05.22 Sun posted at 17:35 JST

香港(CNN) 毛沢東は1966年5月16日、「516通知」を出し、文化大革命の口火を切った。中国では以降、10年あまりにわたり流血や混乱が相次ぎ、国のあり方は永遠に変わった。文革開始から50年を迎えたのを機に、このほど文革に関する新著を出した歴史家のフランク・ディケーター氏と共に当時を振り返る。

516通知は、「ブルジョワ階級の代表」と「反革命修正主義者」の浸透を許しているとして、中国共産党や軍、政府を糾弾したものだ。未曽有の規模の社会的混乱がこれに続き、数十万人が殺害され、百万人が下放されたり、心に傷を負ったりした。紅衛兵や人民解放軍のさまざまな派閥が闘争を繰り広げた当時の状況について、ディケーター氏は内戦と評している。

一般国民の間で数千万人の死者を出した「大躍進」の失敗を受け、毛沢東の力は当時おそらく第2次世界大戦後で最も弱まっていた。毛沢東は516通知を出すことで、政府内の敵対勢力に対し人民の力を発動させようとした。

北京市内の大学で始まった動きは広く社会に波及した。毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題したポスターを直筆し、「反革命」の拠点に対する攻撃を呼びかけた。ディケーター氏は、こうした党への攻撃の呼びかけは後にも先にも例がないと指摘。スターリンやポルポトでも、自ら築いた組織を攻撃するよう人々に促すことなど考えないだろうと語る。

66年8月18日、紅衛兵100万人以上が中国全土から天安門広場に集まった。毛沢東の腹心で国防部長を務めていた林彪は「反革命勢力」を攻撃。旧風俗、旧文化、旧習慣、旧思想の「四旧」を打破するよう呼びかけた。

多くの人々がこうした機会を待っていた。ディケーター氏は、長年にわたる共産党支配で国民の不満が蓄積していたと説明する。大躍進の被害者や劣悪な環境で暮らす工場労働者、初期に追放された党員らが党指導部の糾弾に回ったという。

毛沢東はこの時期を通じ、混乱を生み出すことで全国民の引き締めを図った。共産主義を嫌い、毛に操られていると気付いていた人々もこれを機に、地元の有力者や党当局者を攻撃した。

数千人に上る一般国民も紅衛兵の標的となり迫害された。その多くは「牛棚(牛小屋)」と呼ばれる即席の収容施設に入れられ、肉体労働を強制されるなどした。北京大学の故・季羨林教授は回想記「牛棚雑憶」の中で、収容されて数カ月がたつと感情が鈍麻し思考力が衰えるのが実感されたと振り返っている。当時の体験は地獄に落ちるようだったという。

これは珍しい体験ではなく、他の大学教授や教師も集会や自己批判大会でつるし上げられた。北京郊外の大興区では地主や「悪質分子」の殺害が命じられた結果、300人以上が犠牲になっている。

国内が混迷を深める中、毛沢東の姿勢は激しさを増した。軍の介入も促した結果、「人々は文字通りお互いを攻撃し合うに至った」という。毛の視点からすると、抵抗する党幹部に代わり夫人の江青が率いる「四人組」が実権を握るなど、文革は大成功だった。

ディケーター氏は、こうした状況に共産党が多少なりとも歯止めをかけられたかもしれない時点が少なくとも2度あったと指摘する。毛沢東の求心力が低下していた大躍進後の時期と、軍幹部が毛夫人率いる文革小組に公然と反抗した67年2月だ。

だが毛は大躍進失敗の責任の一端を引き受けることで、他の党幹部にも連帯責任を認めさせ、その権力を切り崩すとともに自身の立場を強化した。67年の場合、首相だった周恩来らを味方につなぎ留め、自身に批判的な軍幹部を糾弾・粛正した。

だが文革を止められなかった究極的な理由は、毛沢東が絶対的な権力を握っていたことにある。ディケーター氏は、「ソ連でフルシチョフが脱スターリン化を始めた際は、スターリンの遺体を霊廟(れいびょう)から引きずり出しても大丈夫だと分かっていた。なぜならレーニンも共に埋葬されていたからだ」と指摘。一方、中国の場合は共産党の全歴史の中心に毛がいたため、党がその過去を批判的に検証することができないという。

混乱を抑える動きは70年代初めにもあったものの、文革が本当の意味で終わるのは76年9月9日、毛沢東の死去を待たねばならない。後を継いだ華国鋒は四人組を逮捕、鄧小平ら穏健派を復権させた。

鄧小平は78年に最高指導者になり、文革政策の見直しと公式の経済開放を主導した。中国を集団経済から後の経済大国に転換させた功績は鄧小平にあるとされることが多い。

だがディケーター氏によれば、鄧小平の改革の背景には、下から噴出した人民自身の動きがある。こうした人々は疎外され共産主義に絶望していた。地方に住む大多数の国民にとって、共産党への信頼は大躍進により既に損なわれており、文革によって党が打撃を受けた時、信じられるものはほとんど何も残っていなかったとの見方を示す。

中国各地で人々が自由市場を作り始めた結果、鄧小平は計画経済の放棄を余儀なくされたという。経済改革の先頭に立ったのは共産党の支配によって最も虐げられていた人々だ。これにより数百万人の中国人が貧困から脱出し、国のあり方も永遠に変化した。

このサイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、Cookieなどを使用してアクセスデータを取得・利用しています。これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについては詳細をご覧ください。