ケニアの鉄道支えたインド人移民たち

2014.12.12 Fri posted at 16:20 JST

ケニア・モンバサ(CNN) ケニア南東部、インド洋に面した都市モンバサの港にインド系住民の先祖が上陸したのは100年ほど前。彼らはケニアを通りウガンダに至るアフリカ有数の大鉄道の建設に携わるためにこの国に来た。そして線路とともにインド人コミュニティーやその文化的・経済的影響も内陸部へと広がっていった。

モンバサのレストランで出会ったインド系の自営業者の女性は「(インド系は)日用品や運輸などさまざまなものを握っている」と語る。彼女の祖父は鉄道建設に携わるためにこの国に移り住んだという。

女性の同僚もこう語った。「インド系は商人として、ケニア経済のなかでとても大きな役割を果たしている」

また、近くのスパイス店の店主に言わせれば、インド系住民は建設や小売り、観光業などにも幅広く関わっている。

この鉄道は、建設に膨大な費用がかかり危険を伴ったことから「狂気の路線」と呼ばれた。

1890年代半ばまでにケニアを事実上支配した英国は、ドイツへの対抗上、内陸部や隣国ウガンダの開発をもくろんでいた。

だが鉄道建設の仕事は恐ろしく厳しかった。モンバサから約1000キロメートル離れたビクトリア湖畔のキスムまでの路線を例に取ると、完成までに約2500人の労働者が命を落とした。

インドではその半世紀近く前から鉄道建設が始まっており、エンジニアも建設労働者も必要な技術を身に付けていた。新しい生活を夢見てインドからケニアに渡った労働者は3万人を超えた。

彼らを苦しめたのは厳しい暑さと長時間労働だけではない。

建設現場の周辺に、2頭の人食いライオンが出没したこともある。犠牲者は28人とも100人以上とも言われ、労働者たちがライオンを恐れたあまり、工事自体が中断する事態となった(最終的に2頭は射殺された)。

さらに、人々は病気とも闘わなければならなかった。「建設中、多くがマラリアやカラアザール(鞭毛虫の寄生で起きる病気)で命を落とした。医療機関がなかったことも多くの死につながった」と、インド系3世のコマル・シャーさんは言う。

シャーさんは今、ナイロビでヨガ教室を開いている。ナイロビやモンバサといった大都市には、このように自営業を営むインド系住民が多くいる。

シャーさんにとって、祖父らが地元社会や鉄道建設に貢献してきたことは誇りだ。「私は胸を張って自分がケニア人だと言える」と彼女は言う。

だが地方では、インド系とアフリカ系住民の関係は複雑だ。

鉄道の終着点、キスムのシャキール・アハメド議員はインド系で、妻はアフリカ系だ。アハメド議員は「モンバサや(タンザニアの大都市)ダルエスサラームと違い、(キスムのインド系住民は)真の同化には至っていない」と語る。「同化したと言えるのは買い物やビジネスの場面だけだ」

インド系住民は経済において大きな役割を果たしているものの、社会にさらに溶け込む努力や孤立を防ぐよう努める必要があるとアハメド議員は考えている。

「私たちはケニアの(全人口の)1.4%にも満たないが、経済のおそらく30~40%を握っている」と議員は言う。「(だが)この地で稼ぎ、生活するならば、この国に貢献しなければならないことを忘れてはならない」

この言葉には、この美しい国に初めて上陸した1世の人たちも、心から同意してくれるはずだ。

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