北朝鮮による日本人拉致問題、日朝協議にかける希望

拉致被害者の1人、田口八重子さんは1978年、22歳の時に失踪した

2014.07.02 Wed posted at 10:12 JST

東京(CNN) 北朝鮮による日本人拉致問題を巡り、日朝の政府間協議が1日、北京で始まった。協議を前に、拉致被害者の1人、田口八重子さんの帰国を待ち望む家族らが、CNNに心境を語った。

日本政府によると、北朝鮮は1970年代後半から80年代の初めにかけ、少なくとも17人の日本人を拉致したとみられる。拉致被害者は数十人に上った可能性もある。

登下校中に連れ去られた子どもや、海岸での散歩帰りに狙われたカップルもいた。

北朝鮮は2002年に初めて拉致の事実を認めたが、日本への帰国を認められたのは5人だけ。残る12人については十分な情報がない。

そのうちの1人が田口八重子さんだ。78年6月12日、22歳で行方不明になった。

八重子さんは2人の子どもを抱えて離婚を経験し、都内のキャバレー「ハリウッド」のホステスとして働いていた。50年以上前からこの店にいるという支配人の男性は「田口さんが姿を消した時、ただ店を辞めてどこかへ行ってしまったのだと思った」と振り返る。「そういうことはよくある。まさか拉致されたとは思いもしなかった」という。

八重子さん(写真左)は離婚してシングルマザーとなり、働きながら長女と長男を育てていた

八重子さんの兄、飯塚繁雄さんが後に警察から聞いた話によると、北朝鮮の工作員は当時、この店をこっそりと物色して八重子さんに目をつけた。「北朝鮮はある計画のために役立つ人物を探していたようだ」と、繁雄さんは話す。結婚と出産の経験があり、化粧品や女性雑誌などの流行にも詳しい22歳の日本人女性。八重子さんは北朝鮮の条件にちょうど当てはまったとみられる。

飯塚さん夫妻は八重子さんの長男の耕一郎さんを引き取り、自分たちの子どもとして育てた。長女は別の夫婦の養子となり、これまで公の場には出ていない。繁雄さんは、耕一郎さんが20歳になったら真実を知らせようと思っていた。

しかし87年に大韓航空機爆破事件が発生。実行犯の金賢姫・元死刑囚は、日本人女性から日本語の教育を受けていたと供述した。警察は捜査の結果、この教育係が八重子さんだったと断定した。

繁雄さんは「言葉にできないほどの怒りと憎しみを感じる。なぜ八重子が連れて行かれたのか」と語り、八重子さんは何も悪いことをしていない、働き者のシングルマザーだったと訴えた。

北朝鮮側は八重子さんが86年に交通事故で死亡したと主張しているが、耕一郎さんは「確かな証拠がない」と指摘する。提供された文書には氏名が記載されていないという。

02年10月に拉致被害者5人の帰国が実現。残る被害者らについては十分な情報がない

繁雄さんと耕一郎さんは元拉致被害者から、八重子さんが今も生きているとの証言を聞いた。八重子さんは帰国を強く望み、子どもたちに会いたいと涙ながらに訴えたとされる。

耕一郎さんは「とにかく早く帰国してほしい」と話す。幼かった耕一郎さんに八重子さんとの思い出はなく、脳裏に描いた面影だけが頼りだという。北京での協議に希望をつなぐ一方で、「母は北朝鮮のスパイ教育を知りすぎたために帰国が許されないのでは」と懸念している。

CNNはこの件で計9カ国の北朝鮮大使館や代表部に問い合わせたが、返答は得られなかった。北朝鮮は08年にも拉致問題の調査を約束しながら、一方的に打ち切っている。

日本人拉致、帰国待ち望む家族ら

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