世界の11の暗殺現場

米ニューヨーク・ダコタハウス。1980年にジョン・レノン暗殺

2014.09.23 Tue posted at 18:01 JST

(CNN) 歴史的な災害や虐殺現場の跡地を巡る「ダークツーリズム」が昨今人気になっている。

その中でも暗殺現場となった場所は死と権力、名声が入り交じった事件を想起させ、訪れた者が犠牲者の遺志に思いをはせる場所になっている。

古くは2000年も前から人々をひきつけてきた世界的に有名な11の暗殺現場を紹介する。

1.ローマ・ポンペイウス劇場(ユリウス・カエサル暗殺、紀元前44年)

ユリウス・カエサルの刺殺は、その後に起こった数々の暗殺がかすんで見えるほど、血なまぐさく、残忍なものだった。

カエサルの独裁に終止符を打とうと、暗殺の陰謀には約60人の元老院議員が関与した。カエサルは23カ所刺されたが、致命傷となったのはそのうちの1カ所だった。

暗殺現場はポンペイウス劇場の列柱廊付近で、よく言われるフォロ・ロマーノにある元老院議事堂ではない。現在、この現場は地下数メートルに埋まっている。

2.米ダラス・ディーリープラザ(ジョン・F・ケネディ暗殺、1963年11月22日)

ケネディ大統領の車列がダラス中心部にあるディーリー・プラザの広場を通過する際、リー・ハーベイ・オズワルドは、テキサス教科書倉庫の建物の6階から照準を定めていたとされる。

この建物の6階と7階は、1989年からケネディ大統領の生涯、暗殺、遺産に関する博物館になっており、ディーリー・プラザの「6階博物館」には毎年35万人が訪れている。

ディーリー・プラザは暗殺当時の状況が比較的よく保存されている。ケネディ大統領が被弾した場所には白のXマークが付けられている。

ワシントンDC・フォード劇場。1865年にエイブラハム・リンカーン暗殺=MAXWELL MACKENZIE提供

3.ワシントンDC・フォード劇場(エイブラハム・リンカーン暗殺、1865年4月14日)

リンカーン大統領は、奴隷制に反対し、米国内で奴隷制が拡大することに反対したことで知られる。

また大統領は大の演劇愛好家でもあり、暗殺の日もフォード劇場で妻のメアリー・トッド・リンカーンと他の2人の客とともに演劇「われらのアメリカのいとこ」を鑑賞していた。

南部連合支持者で奴隷制廃止に反対していた俳優のジョン・ウィルクス・ブースが突如、大統領らのいるボックス席に侵入し、大統領の後頭部めがけて銃弾を発射。大統領は翌朝、亡くなった。

暗殺現場となったフォード劇場は現在も劇場、教育センター、博物館として利用されている。

4.ニューデリー・ビルラ邸(マハトマ・K・ガンジー暗殺、1948年1月30日)

マハトマ・ガンジーは日課である祈りの会に向かう途中、ガンディーの非暴力の教えに反対するヒンドゥー原理主義者ナートゥーラーム・ゴードセーに射殺された。ゴードセーは、宗教暴動を引き起こした1947年8月のインド・パキスタン分離独立もガンジーの責任と考えた。

当時、ガンジーは友人であるインド人実業家G・D・ビルラの屋敷に滞在していた。その後、ビルラ邸はインド政府に買い取られ、現在はガンジー・スムリティ博物館になっている。博物館は一般公開されており、文化・社会行事も行われている。

米ニューヨーク・ダコタハウス。1980年にジョン・レノン暗殺

5.米ニューヨーク・ダコタハウス(ジョン・レノン暗殺、1980年12月8日)

1980年12月8日の深夜、レコーディング・スタジオから帰宅したジョン・レノンは、自宅アパートのダコタハウスの私道で4発の銃弾を受けて死亡した。

レノンの妻オノ・ヨーコは現在もこのアパートに住んでいる。

殺害現場となったダコタハウスに事件を示す碑はないが、セントラルパーク内にはレノンを追悼するためにオノが出資して作られたストロベリーフィールズと呼ばれる場所があり、そこにレノンの有名な楽曲である「イマジン」の文字が真ん中に書かれたモザイクの記念碑がある。

6.米テネシー州メンフィス・ロレインモーテル(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺、1968年4月4日)

ノーベル平和賞受賞者であるキング牧師は、メンフィス市内のロレインモーテルのバルコニーでジェームズ・アール・レイに撃たれた。当時キング牧師は、ストライキを行っていた市職員らのデモ行進を支援するために同市を訪れていた。

暗殺現場となったロレインモーテルは、地元住民の資金提供により、国立公民権博物館となった。キング牧師がよく利用した306号室と308号室やモーテルの外装が当時のまま保存されている。

ロシア・サンクトペテルブルク・ユスポフ宮殿。1916年にグリゴリー・ラスプーチン暗殺=A. SAVIN提供

7.ロシア・サンクトペテルブルク・ユスポフ宮殿(グリゴリー・ラスプーチン暗殺、1916年12月)

ロシアの宮廷貴族らは、あごひげを生やした熊のような大男で、不思議な癒しの力を持つと自ら主張するラスプーチンが、ロシアの王族に対し過度の影響力を及ぼし始めたことに危機感を抱いた。そしてある晩、ユスポフ宮殿でラスプーチン殺害計画が実行された。

しかし、これが一筋縄ではいかなかった。最初に毒入りケーキを食べさせたが殺害できず、2発の銃弾を撃ち込んでも生きていた。その後致命傷となる銃撃を受け、殴る蹴るの暴行を受けた後、念を入れて凍り付いた川の中に投げ込まれた。

現在、ユスポフ宮殿の黄色い優雅な建物は博物館として一般公開されている。ラスプーチン暗殺に関する展示品もあり、英語とロシア語のツアーも行われている。

8.ボスニア・サラエボ・ラテン橋付近(アーキデューク・フランツ・フェルディナント皇太子暗殺、1914年6月28日)

オーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナント皇太子を暗殺したガブリロ・プリンツィプは、裁判で自分は同国からの独立を目指すユーゴスラビアの民族主義者だと述べた。

プリンツィプは、オーストリアのフェルディナント皇太子の車が止まる直前、サラエボのラテン橋からすぐの脇道にある食料品店の外に立っていた。当時まだ19歳だったプリンツィプは、皇太子の首を撃ち、さらに皇太子の妻ゾフィーの腹部を撃った。皇太子夫妻はボスニア総督官邸に運ばれたが、2人とも死亡した。このサラエボ事件がきっかけとなり、第1次世界大戦が始まった。

現在、事件現場となった交差点の角にサラエボ博物館がある。

米ニューヨーク・オードゥボン舞踊場。1965年にマルコムX暗殺=WIKIWHAT/WIKIPEDIA TAKES MANHATTAN提供

9.米ニューヨーク・オーデュボン舞踊場(マルコムX暗殺、1965年2月21日)

オーデュボン舞踊場は、アッパー・マンハッタンにある施設で、劇場、舞踊場、音楽堂として使用された。マルコムXが創立したアフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)は1964年から65年まで、毎週、同地で会合を開いていた。

マルコムXはその会合の最中に、黒人の民族的優越を説くイスラム運動組織ネーション・オブ・イスラム(NOI)のメンバーに射殺された。マルコムは10年以上もの間、NOIの最も著名なメンバーの1人だったが、暗殺される前年にNOIを脱退していた。

暗殺現場となったオーデュボン舞踊場は、1992年にバイオテクノロジーの研究センターに改装されたが、建物の正面は当時のまま保存されている。また2階はマルコムX・ベティ・シャバズ記念教育センターという教育施設になっており、壁にはマルコムXの生涯を描いた壁画が飾られている。

10.イングランド・カンタベリー大聖堂(トマス・ベケット暗殺、1170年12月29日)

イングランド王ヘンリー2世の治世時代のカンタベリー大司教トマス・ベケットは、イングランドで最も力のある司教のうち3人を破門し、ヘンリー2世を激怒させた。

ヘンリー2世は、かつて親友だったベケットを排除したいとつぶやいたという。王の意をくんだ4人の騎士がベケット殺害のため、カンタベリー大聖堂に向かった。ベケットは騎士たちが向かっていることを知らされたが、「誰であれ、教会への立ち入りを禁ずるべきではない」と述べ、大聖堂の扉を閉ざすことを拒んだ。

ベケットが殺害されたされる北西翼廊内の区画は「マータダム」(殉教の意味)と呼ばれ、ベケット殺害時に剣先が折れた逸話に絡んで「剣先の祭壇」が設置されている。

メキシコ市コヨアカン・トロツキー邸。1940年にレオン・トロツキー暗殺=JEZABEL KARLIN AGUIRRE REYES提供

11.メキシコ市コヨアカン・トロツキー邸(レオン・トロツキー暗殺、1940年8月21日)

スターリンとの権力闘争に敗れメキシコに亡命したトロツキーは、同地でアイスピックで後頭部を刺され殺害された。

殺害現場である要塞化されたトロツキーの自宅は、1990年にトロツキーの死後50年を機に博物館として公開された。敷地の中央にあるトロツキーが妻と過ごした建物は、当時のまま保存されており、トロツキーの日記は殺害された日のページが開かれた状態で置かれている。

庭園には旧ソ連の国旗にも描かれたハンマーと鎌のマークが彫られたトロツキーの墓石がある。他の建物にはトロツキーの写真が展示されている。

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