イラク戦争で得られた5つの教訓

2013.03.21 Thu posted at 09:31 JST

(CNN) 米国人はイラク戦争への興味を失った。国の政治的議論の中心だったこの話題も今では、ほんのついでに言及される程度だ。米国は、イラク戦争について実行する価値のあるものだったのかどうか論争するのではなく、先に進むことを決断した。たとえ大部分の米国人にとって、その質問の答えが「いいえ」だったとしても。

しかし、イラク戦争は、米国にとってベトナム戦争以降で最も重要な軍事紛争であり、開戦から10年の後、こう尋ねることは価値があるだろう。戦争とその余波、そして、占領から学んだ教訓は何かあったのだろうかと。以下に5つの教訓を挙げる。

十分な軍隊を連れて行く

ブッシュ政権はイラクとの開戦に当たり、政治的に比較的簡単にすむであろう方法を選択した。ブッシュ政権は小規模な侵攻軍のための計画を立案し、コストも最小限に抑えると主張した。国防総省はその逆の方法を提案していたし、政権内部に反対の声もあったが耳を貸さなかった。戦争の初期段階では、サダム・フセイン軍を倒し、計画はうまくいった。

しかし、目的が侵攻から占領へとかわるにつれ、軍の「人員不足」が致命的な問題であることが明らかになった。イラクは、米軍の目の前で、あっという間に混沌と内戦に陥り、軍にはそれを止める手立てがほとんどなかった。1990年代のバルカン半島での紛争から得られた教訓は、もっと大規模な軍を用意するというものだった。一部の推計では米国にはイラクに投入した4倍の人員が必要だったという。しかし、この教訓は2003年には身についていなかった。次回、開戦が必要となる事態となったら、適切な人員を用意する必要があるだろう。

国を分裂させるな

占領の最初の数カ月、米国はイラク軍を解体したほか、フセイン政権時代の与党バース党の解党を進めて党幹部に対する公職追放を実施し、さらには、国営企業を閉鎖した。こういった動きの積み重ねは、イラクの支配層であるイスラム教スンニ派に対し、新生イラクには彼らの居場所がないというメッセージとして伝わった。

開戦を伝える新聞=2003年3月20日

職を失い、怒り、武装したものもいる多くのスンニ派の人々が、その後10年にわたってイラクの安定を揺るがす内乱の動きを組織したり促したりすることになる。

こうした決断を、アパルトヘイト(人種隔離)政策が廃止された後にネルソン・マンデラ氏が取った行動と比較してみよう。マンデラ氏は自身が率いるアフリカ民族会議(ANC)が権力の座に就いても、新政権は既存の官僚や軍幹部を1人も追放しないことに同意した。アフリカーナ人の支配層全員を保護することで、新しい南アフリカで彼らに脅威が及ばないようにした。結果として、ほとんど奇跡的に、多くの人々が避けられないとみていた内乱は発生しなかった。

扉をたたき壊すな

内乱が起こり始めると、最も初期の段階でさえ、米軍の取った対応は間違ったもので、完全に逆効果だった。米軍は「衝撃と畏怖(いふ)」を全面に押し出した戦略を採用し、反乱分子とみられる人物の家の扉をたたき壊し、地域社会を一網打尽にし、強硬な態度を見せ付けた。これは反発を呼び、地元の人々は米国人が暴力集団であり、反乱者が米国人に抵抗するには理由があるのだと考えるようになった。一方、イラク北部のモスルではデービッド・ペトレイアス大将が別の道を歩んでいた。ペトレイアス氏は最初から地元の人々から支持されることに注力し、資金的な援助や支援を与え、信用や信頼を得ることに尽力した。こうしたやり方が米軍全体で採用されるようになるのは、6年におよぶ戦闘と失敗の後だった。

取引は全ての関係者と

イラクにおける最も重要な取り組みは、合意を共有した新しい国家的な権力を生み出すために、シーア派とスンニ派とクルド人という3つのコミュニティーをまとめ上げることだった。その中には、石油の売り上げの分配や権力や統治機関の配分、領土紛争の解決などが含まれているはずだった。しかし、そうではなく、米国は過半数を占めるシーア派に主要な権限を受け渡した。

イラクから引き上げる米軍。今後、「教訓」は生かされるのか

シーア派が他の2者を公平に扱うと信じて。しかし、そうはならなかった。クルド人は自らを守るためにイラク北部に自治区を作っており、そこは事実上の国家といえる。パスポートを発行し、クルド語が話され、自前の軍隊も保有している。スンニ派による内乱は現在も続いている。暴力行為は減少しているものの、イラクでは依然として重要な取り組みに何の進展も見えない。つまり、イラクの北部地域は分裂し、国の中心部では毎日のように暴力が頻発しているということだ。

選挙を実施する前に憲法を制定せよ

米国は、選挙に突入する前に、憲法と基本的な法律を整備しようとしていた。しかし、米国は占拠の最初の年に失敗を繰り返し、シーア派からの支持を絶対的に必要としていた。そして、そのためには早期の選挙を認めるしかなかった。こうした選挙によって、イランから長年の支援を受けていたシーア派の宗教政党が権力を握ることになった。

マリキ首相が率いる政党をはじめとするこの集団は、自由や法秩序にはほとんど興味がない。彼らにとって、選挙は権力基盤を固め、反対勢力を抑圧し、宗派間の対立を続けるためのひとつの方法に過ぎない。リベラリズムや寛容さがイラクから消え去った最も明確な兆候はキリスト教徒の人口だ。フセイン時代や戦争を生き抜いたイラクのキリスト教徒も、新しい民主的なイラクから身の危険を感じて逃げ出した。いまでは、イラクにキリスト教徒はほとんどいない。はるか昔からこの地域に住んでいたにもかかわらず。

イラク戦争から得られた教訓はこれだけではないだろう。しかし、これらの多くは留意する価値のあるものだ。アフガニスタンに目を向ければ、パシュトン人とそうでない人たちとを含んだ全ての関係者と取引を行うという問題に当てはまるだろう。シリアに関していえば、少ない人的・物的資源と多くの善意で効果的に介入できるかどうか自問する必要がある。

そして、こうした難問を検討する際には、常に物事がうまくいかなくなることがあるだろうかと自問し、少なくともそれに備えなければならないだろう。なぜなら、もしイラク戦争から学ぶものがあるとすれば、それは、遠くの土地で行われる複雑な戦争では、うまくいきそうにない事柄は実際にうまくいかないことが多いからだ。

このサイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、Cookieなどを使用してアクセスデータを取得・利用しています。これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについては詳細をご覧ください。