OPINION

ペレにまつわる偉大な論争

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1970年のW杯決勝でイタリアを下し、歓喜に沸くファンに担がれてピッチを後にするペレ/Alessandro Sabattini/Getty Images
写真特集:サッカーの王様、ペレ その偉業を振り返る

1970年のW杯決勝でイタリアを下し、歓喜に沸くファンに担がれてピッチを後にするペレ/Alessandro Sabattini/Getty Images

(CNN) ペレについて語る言葉のどれもが、使い古された決まり文句の寄せ集めだとしたら残念なことだ。そうした言葉で比類なき生涯、前代未聞のキャリアを要約しようとするのはいかにももったいない。

エイミー・バス氏/Rodney Bedsole
エイミー・バス氏/Rodney Bedsole

しかし、ペレが82歳で死去したとのニュースが世界中に拡散し始めた時、これまで書かれなかった、あるいは語られなかった内容は皆無のように思われた。

ペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)に関して紹介が必要だったことはこれまで一度としてなく、今も説明は不要だ。サッカー選手を超えたアスリートでありながらサッカー界の主張を鮮明に打ち出し、母国ブラジルを超えた存在でありながらそこから離れることは決してなかった。

サンパウロ州バウルの貧しい環境で育ったペレは、父親からサッカーを習った。詰め物をした靴下やグレープフルーツをボール代わりに練習していたという。1958年、わずか17歳の時にその才能が国際試合のピッチで炸裂(さくれつ)する。ブラジル代表としてワールドカップ(W杯)の史上最年少ゴールを決め、チームも開催国のスウェーデンを決勝で破って優勝。サッカーにおけるブラジルの存在を世界に知らしめた。国際的なアイコン(象徴)の誕生だ。

確かにペレは「国の枠を超え、汎アフリカ的成功のイメージを体現した」。歴史家のブレンダ・エルシー氏は南米サッカーに関する論文でそう指摘する。特に所属するサントスFCの選手たちが60年代にナイジェリアとモザンビークへ遠征した際にはそれが顕著だった。「ブラジルのサッカーチームの主力選手たちがやはり貧困地区の出身であり、困難な状況で育っていたことは、グローバルサウス(訳注:主に南半球に偏在している開発途上国)全域の選手たちの間に連帯を生み出した」(エルシー氏)

ブラジルのサントスに在籍した約19年間で、ペレは659試合に出場し、643ゴールを記録した(パリ・サンジェルマン、レアル・マドリードといった強豪クラブから魅力的なオファーがあったにもかかわらず、サントスにとどまった。一時はインテルへの加入が実現しかけたが、国内のファンの抗議に遭い頓挫した)。自国とチームに貢献する一方で、個人でも史上最高の選手としての存在感を発揮。3度のW杯制覇(58年、62年、70年)という空前の記録を打ち立てたほか、ギネス・ワールド・レコーズによれば1363試合に出場し1279ゴールを挙げている(ただ親善試合やエキシビション・マッチを含めたペレの通算ゴール数は常に議論の的だ)。

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