75年目のヒロシマ、原爆がたどった道を歩く

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人類史上初の核兵器使用から75年。広島の惨禍へと至る原子爆弾の歩みを振り返る/Photo Illustration/getty images

人類史上初の核兵器使用から75年。広島の惨禍へと至る原子爆弾の歩みを振り返る/Photo Illustration/getty images

北マリアナ諸島・テニアン島(CNN) 色あせたコンクリート製のスラブ(床版)が、熱帯の湿気を含んだ地面に埋め込まれている。ビーチキャビンの床程度の大きさしかないが、まさにこのスラブの上で、歴史が変わった。

出入り口の跡がはっきりと分かる。内壁のあった箇所や、より大きいガレージのような入り口につながる通路も一目瞭然だ。

私は出入り口から足を踏み入れ、内部を通ってガレージに抜ける。数歩の足取りだったが、ガイドの男性の説明でそれは途方もない光景へと変わった。

「あなたが今歩いているのは、原爆がたどった道だ」

75年前、広島と長崎に投下された原子爆弾は、このスラブの上で組み立てられた。核の時代の始まりが、まさに形となって現れた場所なのだ。

現在はほとんど忘れ去られたこの場所は、太平洋に浮かぶテニアン島にある。当時、米空軍のB29爆撃機はこの島から飛び立ち、日本への核攻撃を実施した。

 
  1945年8月6日、テニアン島から広島までのB29爆撃機の飛行経路
1945年8月6日、テニアン島から広島までのB29爆撃機の飛行経路  

ノースフィールド

テニアン島は北マリアナ諸島の一部で、現在は米国の自治領だ。2020年、のんびりとして飾り気のないこの熱帯の楽園には3000人が暮らす。数えるほどのレストランと2~3軒の小さなホテル、ガソリンスタンドが1カ所ある。島の面積は101平方キロ。

1944年、テニアン島は約8キロ北にあるサイパン島とともに、米軍と日本軍との激戦の舞台となった。

米軍が両島を必要としたのは、最新鋭のB29爆撃機によって約2400キロ離れた日本本土への攻撃を可能にするためだった。そして44年の夏、記録的な数の戦死者を出した3カ月に及ぶ戦闘の後、米軍は島を制圧。直ちにB29のための大規模な飛行基地を建設した。

75年後の今日、私が訪れているのはそうした基地の1つ、ノースフィールドだ。

原爆の組み立てを行った施設の跡地で、私とガイドはレンタカーに乗り、旅の次なる目的地を目指す。少し車を走らせると、地面を掘り抜いて作った「ピット」に着く。完成した原爆はいったんピットの底に置かれた後で引き揚げられ、爆撃機の爆弾倉に収納。標的に向けて運ばれていった。

長い年月が経過したノースフィールドには背の高い草が生い茂る。乗り入れたレンタカーの側面をこするほど長く伸びたところもある。

しかし45年当時、ここは広々とした基地であり、多くの作業施設やテント、航空機、人員で埋め尽くされていた。第2次大戦中の一時期には、世界で最も多忙を極めた飛行場だった。

周囲の環境は変化したが、我々の足元にあるアスファルトは紛れもなく、米海軍建設工兵隊が75年前に敷設したものだ。

今回私を案内してくれたドン・ファレル氏はカリフォルニアの出身で、70年代に太平洋諸島へ移り住んだ。地元の人々からはテニアン島の歴史の第一人者とみられている。同氏は45年当時の島の状況を詳細に調べ、「Tinian and the Bomb(仮題:テニアン島と原子爆弾)」と題した著書にまとめた。

前出のピットの発掘と保存が実現したのも、10年以上前にファレル氏が主導した取り組みによるものだ。

私はレンタカーをピットの縁までバックさせる。B29が原爆を搭載したこの地点から、今度は滑走路へと移動する。

ノースフィールド基地のエーブル滑走路。先端までの距離はそう長くはない。まさにこの滑走路から、エノラ・ゲイと名付けられたB29が飛び立っていった。1945年8月6日、午前2時45分のことだ。

私はアクセルを踏み込み、同じ滑走路をレンタカーで走り抜ける。路面が視界の下を流れ去る中で、鳥肌が立つのを感じる。

同乗するファレル氏が、75年前にパイロットが見ていたであろう景色を説明する――基地のテント群、兵士たち、出撃を待つ数十機のB29。

滑走路の走行は2分で終わり、私には短く思えたが、エノラ・ゲイの搭乗者たちにとってはそんなものではなかったとファレル氏は言う。

彼らは、それまで誰も経験したことのない任務に就いていた。戦争終結を早めるとされ、間違いなく歴史を変えると考えられていた任務だ。

「彼らにとっては、人生で最も長い2分間だった」(ファレル氏)

エノラ・ゲイ

ノースフィールド基地を飛び立ったその機体は、現在米首都ワシントンの郊外で見ることができる。

エノラ・ゲイは、バージニア州シャンティリーにあるスミソニアン航空宇宙博物館関連施設の中心的な展示物の1つだ。施設内の中央に位置し、その周りを最初期の飛行機からスペースシャトル「ディスカバリー」に至るまであらゆる年代の航空機が取り囲んでいる。

施設の学芸員を務めるジェレミー・キニー氏は「この展示は歴史的な遺物として、極めて重い意味を持つ」「博物館にとっても国にとっても、論争を呼ぶ展示物であり続けている」と語る。

一方において、それは第2次大戦中の米国の戦争遂行能力を体現する最たるものだ。当時のテクノロジーを惜しみなくつぎ込み、構想、設計から製造、配備までを約5年で行った。

他方、同機が運んだ世界最初の核兵器は、投下直後の爆発で7万人の命を奪い、続いてやけどや放射線に関連する症状でさらに数万単位の死者を生む被害をもたらした。

大陸間を移動する爆撃機として設計されたB29は、英国がナチスドイツに敗れた場合、米国本土から欧州への攻撃に使用されるとみられていた。

第2次大戦中、米国はエノラ・ゲイを含む航空機30万機を製造。エノラ・ゲイは原子爆弾の輸送に特化して作られたわずか15機のB29の1機だった。

米軍パイロットのポール・ティベッツ大佐が原爆投下の任務に同機を使用することを決めた時、エノラ・ゲイはまだネブラスカ州オマハにある工場で組み立てられている最中だった。エノラ・ゲイという名は、任務に向けて出発する直前、ティベッツが自分の母親にちなんで付けたものだ。

現在スミソニアン博物館を訪れた人がエノラ・ゲイの展示を眺めても、広島への原爆投下の全容について知ることはできない。広島から持ち込まれた展示品はなく、被爆者についての言及もなければ、当時核兵器の使用が必要だったのかどうかの議論が示されているわけでもない。

そうした内容をエノラ・ゲイの展示に含める計画はあったが、退役軍人の団体からの圧力を受けて1995年に撤回された。当時の博物館の責任者は、展示には分析を含めず、退役軍人が払った犠牲に対する追悼と敬意のみを表す内容にすると述べた。

現在の博物館のホームページにも、エノラ・ゲイの項目に広島での死者数への言及は見られない。

学芸員のキニー氏はエノラ・ゲイについて、原子爆弾の時代や第2次大戦の終結といった人類史の重要な転換点としての意味を見出す人々がいることを認めつつ、同時に20世紀前半の航空工学がいかに高度な発展を遂げたのかを伝えるための展示でもあると強調する。

大阪から訪れた50歳の男性が持ち帰ったのは、まさにこうしたメッセージだった。

エノラ・ゲイを目の当たりにして驚嘆したという男性は、「高い技術と経済力の強さがあるからこそ、このような物を作れる」と話す。

一方で、日本人として自身がどう思うかについては、感情的にはならなかったという。

男性は、「戦後生まれの自分にとって、そういう話は歴史の一部でしかない」と説明する。

ヒロシマ

スミソニアン博物館から地球を半周した先では、そうした「歴史」が今なおありありと語られ、人々の心を揺さぶり続けている。

広島市の爆心地近くに立つ平和記念資料館。館内の常設展示で、原爆の犠牲になった生徒たちに関する詳細な記録を見ることができる。

展示ゾーンは暗く、静かで、重苦しい雰囲気に包まれている。ガラスケースの中に生徒らの写真、衣服、自転車、人形、亡くなった人たちの絵を収め、それぞれの解説とともに展示している。

その内容に、思わず涙がこみ上げる。

資料館から少し歩いたところにある原爆ドームは、当時県の産業奨励館だった建物だ。原爆の被害を象徴する残存物として、現在は広島平和記念碑の正式名称で知られている。

ドームの近くにかかるT字形の橋に照準を合わせ、エノラ・ゲイの乗組員たちは原爆を投下した。「リトル・ボーイ」とあだ名されたその原爆は、橋の上空2000フィート(約610メートル)で爆発した。

ドームを取り巻く歩道や、近くを流れる元安川の川岸で、三登浩成(みとこうせい)さんは自転車を止め、自らの情熱を注いで作り上げた資料を広げる。この場所で何が起きたかを詳細に伝えるその資料には、同じことが二度と、どんな場所でも起きないようにとの願いも込められている。

三登さんは母親の胎内で被爆した。原爆が投下された1945年8月6日、母親は妊娠4カ月だった。

現在、教師を退職した三登さんは、13年間ほぼ毎日、ドームに通っていると話す。自転車に乗り、家から10キロの道のりを走ってくるという。

自転車に積まれた資料は、広島への原爆投下とその後の出来事を記載している。日本語、英語、中国語の3カ国語で書かれているが、希望があればその他の言語にも対応してくれる。

「これは私の公開授業。誰に何を聞かれても答える」(三登さん)

三登さんはラミネートをかけた資料にじっくりと目を通す。資料はルーズリーフのバインダーでとじられており、観光客が興味を示せば、一緒にこれを眺める。引用する研究や記録は日米両国から取り寄せた。それらをまとめ上げ、三登さんならではの、自身の理解に基づいたヒロシマの物語を語って聞かせる。活動の目的として念頭にあるのは次のような思いだ。「歴史上の事実を知らなくては、同じ間違いを繰り返すかもしれない」

もし三登さんの手がふさがっていたり姿が見当たらなくても、他の地元の人たちが無料のガイドとして、その場所のあらゆる歴史について詳しく語ってくれるだろう。

しかし三登さんが持つ情熱と経験には、しばらく順番待ちしたり日を改めて聞きに来たりするだけの価値がある。

三登さんの資料の中の1ページには、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉が書かれている。1981年に広島を訪れた際に語ったその言葉は、広島平和記念資料館の中にある記念碑にも刻まれている。

「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです」  

三登さんは、この言葉を自らの人生の指針にしていると語る。

「過去に起きたことの責任は我々にはないが、未来に対しては責任がある」(三登さん)

三登さんが語って聞かせている場所から50メートルほど離れたところでは、1人の西洋人男性がベンチに腰掛け、たばこを吸いながら、むき出しになった原爆ドームの上の部分をじっと見上げている。

男性の名はレイモンド・ゴジシュさん。テキサス州の大学のTシャツを着ているが、出身はノースカロライナ州ウィンストンセーラムだという。

日本を訪れたのは初めてで、実際に来るまではこのようなものが存在しているなどとは思いもよらなかった。

感想を問われても、言葉にするのは難しいようだ。

「米国人である以上、我々の国がやったことではあるけれど、自分とは直接かかわりのない話だから――、個人的には、今(日本人に)嫌われていなくてよかったという感じかな」

今回の旅の経験は間違いなく、長く記憶に残るものになるだろう。

「とにかく目をそらすことができない」。原爆ドームを見上げながら、ゴジシュさんはそうつぶやいた。

現地情報

テニアン島へは、スター・マリアナス航空が小型機をサイパン国際空港から運航している。同空港には米国、日本、韓国、中国などの航空会社が就航する。ノースフィールドに行くには、テニアン島の空港からレンタカーで20分。

エノラ・ゲイが展示されているスティーブン・ F・ ユードバーハジー・センター(スミソニアン国立航空宇宙博物館・別館)は、バージニア州のワシントン・ダレス国際空港の近くにある。新型コロナウイルス感染拡大以来の閉館措置は解除されており、開館時間は午前10時から午後5時半まで。入場は無料だが、駐車場は午後4時まで有料(15ドル)。

広島平和記念資料館も再開した。 午前8時半から開館(12月30、31日の休館日を除く)。閉館時間は時期によって異なる。観覧料は大人(大学生以上)200円。

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