Design

X15――史上最速の有人ロケット機

アームストロングも乗った、史上最速の有人航空機X15

大胆、漆黒、超高速――。そんな形容が当てはまるノースアメリカン社の実験機X15は、まさに唯一無二の航空機だ。初飛行は60年以上前だが、今なお有人航空機の史上最速記録を保持している。

X15の形状は普通の航空機というよりも弾丸に近く、ロケットで推進する。1959年を皮切りに、9年間で199回の試験飛行を実施した。宇宙との境目に到達した後、滑空で地球に戻ってくることが可能で、その過程で取得したデータは米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトルを含む宇宙船の設計、製造に生かされた。

操縦に当たったのは、わずか12人の操縦士からなる精鋭チーム。1969年に月面着陸チームを率いるニール・アームストロング氏もその一員だった。

NASAアームストロング飛行研究センターの歴史研究責任者、クリスチャン・ゲルザー氏はX15について「最高のスピード、最高の興奮、最高の恐怖をもたらした。これ以来、X15のように大気圏内を飛ぶ航空機は作られていない」と指摘する。

カリフォルニア上空を飛行するX15/NASA
カリフォルニア上空を飛行するX15/NASA

「大きな挑戦」

「Xシリーズ」を構成する60以上の実験機は、第2次世界大戦後に空軍やNASAなどの米政府機関によって開発された。その多くは限界を押し広げる目的で開発された極端な機体だが、X15はとりわけ野心的な目標を掲げていた。

X15の開発が始まった1952年、航空機の対気速度の公式記録は時速1130キロ弱にとどまっていた。X15に与えられたミッションは、音速の5倍に当たるマッハ5に到達することだった。

「しかも、高度約7万6000メートルを飛行する必要もあった。これは当時の他のあらゆる航空機の飛行高度を大幅に上回る」「非常に大きな挑戦だった」とゲルザー氏は語る。

プロジェクトを主導したのは米空軍と、1958年に誕生するNASAの前身のアメリカ航空諮問委員会(NACA)だ。「彼らは科学や飛行力学のデータも追い求めていたが、その背景には冷戦によって膨大な研究を行う動機が生まれたことがあった」(ゲルザー氏)

1961年9月、ミッションを終えてロジャース乾湖に駐機するX15/NASA
1961年9月、ミッションを終えてロジャース乾湖に駐機するX15/NASA

飛行の始まり

X15は本質的にコックピットを搭載したロケットであり、他の航空機とは違って、滑走路から離陸するようには設計されていない。あらかじめ高高度まで運んで、母機から発射する必要があった。この場合に母機の役割を担ったのは、特別な改修を施したB52爆撃機だ。

B52は主翼の下にX15をつり下げたまま、カリフォルニア州南部のエドワーズ空軍基地を離陸し、ネバダ州もしくはユタ州に向かった後で方向転換すると、高度約1万3700メートルから時速960キロを超えるスピードでX15を発射した。X15の操縦士はこの段階で初めてロケットエンジンを点火し、大気圏を突破して宇宙空間に入った。

アンモニアと液体酸素を混合した燃料は2分もたたないうちに無くなった。滑らかな乗り心地とは言い難かった。

ゲルザー氏は「X15は空力的には通常の航空機と変わらなかったが、上昇時の勢いは他に類を見なかった」「操縦士の1人だったミルト・トンプソン氏は、エンジンが止まって安心した唯一の航空機だと言っていたよ」と明かす。

グライダー(滑空機)

X15の最高到達高度は約10万8000メートルで、商用旅客機の巡航高度の10倍ほどに上った。目標となる高度に到達すると、操縦士は未知の環境で実験を行い、極超音速飛行に関する専門家のデータ収集を助けた。

X15の機体の大部分は、高高度での飛行を念頭に設計されていた。これほどの高度となると空気は非常に薄く、通常の空力付加装置は役に立たない。そのため、X15は後にスペースシャトルや国際宇宙ステーション(ISS)で使われることになる姿勢制御システムを搭載。過酸化水素を噴射することで、大気圏上層の薄い空気の中で機体を制御する少量の推進力を生み出した。

時速数千キロでの飛行中、機体の表面は空力摩擦によって非常に高温になることから、材料にはインコネルXと呼ばれるニッケルクロム合金を採用した。

X15は今なお有人の飛行機としての最速記録を保持している/NASA
X15は今なお有人の飛行機としての最速記録を保持している/NASA

着陸も簡単ではなかった。「X15は燃料が尽きるか、操縦士がエンジンを切った段階でグライダーになる。極めて高速でありながら主翼が非常に小さいため、グライダーとしても優れているとは言い難かった。あとは速度や高度と引き換えに目標に到達するしかなかった」(グレザー氏)

おまけに前輪はステアリングを搭載しておらず、降着装置もスキッドのみだったので、滑走路は使用できない。代わりに、乾燥湖への着陸を余儀なくされた。

「地上に戻ったX15は基地出発時の原形をとどめていなかった。熱による穴があちこちに空いていた」

長時間飛行

大半の航空機は、時速約320キロ未満のスピードで着陸に向けた最終進入を行う。しかしX15の場合、進入高度は約6000メートル、進入速度は時速2400キロを超える超音速となり、大半の操縦士が経験したことのある条件とはまるで異なる。フライトが無事に終わるとは限らなかった。

「X15は実験機であり、ほぼあらゆる局面で不具合が起きる可能性があった。特筆すべきことに、操縦士たちは数々の問題に直面しながらも、一貫して帰還に成功した」

200回近いフライトのうち、着陸に失敗した例は2回しかない。このうち1回では、操縦士のマイケル・アダムズ氏が死亡。1967年11月15日、アダムズ氏の乗る機体は再突入時にきりもみして制御不能になった末、空中分解した。

X15のテストパイロットを務めたマイケル・アダムズ氏/NASA
X15のテストパイロットを務めたマイケル・アダムズ氏/NASA

半分航空機、半分宇宙船という機体にリスクはつきものだった。技術の進展にもかかわらずX15の記録が破られていない理由の一端はそこにある。

それでも、X15は最も成功した飛行実験プログラムのひとつとして歴史に名を残している。9年間の運用により、高速飛行や宇宙からの帰還、人間の生理学に関する膨大なデータが得られた。1967年には、ピート・ナイト操縦士がマッハ6.7(音速の6.7倍)の史上最速記録に到達した。

X15はまた、史上有数の偉大な宇宙飛行士であるニール・アームストロング氏らの世代も輩出した。アームストロング氏がアポロ11号の船長に抜てきされたのは、X15でのフライト中に伝説的な問題解決能力を発揮したことがきっかけだ。

この時にフライトについて、ゲルザー氏は「1962年、アームストロング氏はマッハ3.8の速度で高度約6万2400メートルに到達した」と解説する。「機体は帰還時に高度約2万7400メートルの大気のてっぺんで跳ね返り、水切り石のようにスキップした。機体を立て直した時には既に、動力を失った状態でロサンゼルス郊外の上空まで来ていた。そこから何とかロジャース乾湖に着陸させた」

「終わってみれば、X15で最長のフライトになった」

注目ニュース

このサイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、Cookieなどを使用してアクセスデータを取得・利用しています。 これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。
Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについては詳細をご覧ください。
[ 閉じる ]